地学全般やそれ以外の随想など

2019年1月26日掲載 

寒山玄意居士のこと
このページの内容は,地学の範囲から外れます.随想でもありません.あえて分類すると,とても「小さい」郷土史の一断面にはなるでしょうか.


  ある先祖さがしの旅 ー寒山玄意居士のことー

[本稿を平成十年物故の谷内老(仮名)に捧げる]
         
一 山内医師の来訪

 元号が昭和から平成へ代わってまもなくのことだから、かれこれ三十年近く前のことである。N県は北部のある農村を訪れた初老の紳士がいた。田植えはとうに終わり、田の仕事は除草と水の管理くらいしかない時季であった。就学前の子供と年寄りくらいしかいない日中の村で、何軒かの農家を訪ね歩くその紳士の様子はいかにも目につくものであった。彼が訪ね歩いていたのは、この村に数軒ある山田姓の家である。名刺には群馬県T市市民病院小児科医師山内某とあった。用件は次のようなものである。
 『自分は現在、群馬県T市の病院に勤めている。停年になる昨年までは当県のN市にあるN大学付属病院にいた。生まれは当県のM市である。実はこの歳になって、自分の先祖のことが妙に気になり始めた。先祖というのは表向きは旧幕時代のM藩の藩士ということになっている。しかしそれは自分の祖父にあたる人が明治の中頃に旧M町の士族の娘と結婚し、それが縁でM町士族の列に連なったことによるものである。自分の幼少の頃、祖父がまだ健在の頃であるが、祖父の出身はM町ではなく、この村であることを聞かされたことがあった。最近になってそれを思い出し、電話帳を調べてみた。しかし山内姓がない。それで山田姓の家を訪ねた次第である』
 T市市民病院医師山内氏の話は始めからこのような詳細なものでもなかったし、何分聞き手の方が田舎の農夫であり標準語を使うという概念もなかった人だったのでやりとりは難渋した。結局、この何軒目かの山田氏を通して山内医師はこの村の古老、谷内老を紹介されることになった。明治生まれの老人は山内医師の話を聞くと、ほう、とうなずき感慨深そうな表情で縁側を通して見える遠くの山々に目をやった。

 二 谷内老の話

 以下は谷内老の話を標準語に直したものである。
 我が家の親戚筋にあたる家の二代ほど前の当主に谷内与太郎という人がおりました。本人が言うには、与太郎という名前も聞きようによっては随分といいかげんだが、これは親が「雄太郎」という勇ましい名前にするつもりが、村の戸籍係に届け出るとき発音が悪く「よたろう」になってしまったのだそうです。当地は「ゆ」が「よ」に転訛するのです。また、昔は自分で筆をとるのがいやなものだから大抵は村の戸籍係に口頭で申し出たのです。ま、どうでもよいことですがこれは本人から直に聞いた話です。ずいぷんと憤慨しておりました。その与太郎じいさんは日露戦争に応召して負傷して戻ってきた人です。足をやられていたためですか、自分が憶えている頃は野良にはあまり出られず、自分ら子供相手によく昔の話をしてくれたものです。手柄話は余り聞きませんでしたが、若い頃の話はよく聞かせてくれました。この中で一つよく憶えていることがあります。これがお宅様のご先祖さんに関係があるのかも知れません。じいさんの親父さんはじいさんがまだ子供の時分に死んでしまって、その家がずいぷんと心細くなった時期があったそうです。日露の戦争が始まる前のことです。そんなとき、M町にじいさんの親父の従兄弟か何かにあたる山内という人がおって、おれのところにこい、百姓やめてM町で働け、当面の食い扶持くらいはおれが出してやる、としきりに勧めてくれたのだそうです。おそらく、生活に困っている与太郎少年を助けるつもりだったのでしょう。しかし、じいさんは『山内はえらい出世をしていると言うから、M町へ行けば少しは楽をできるかもしれない。だが、おれは百姓がいい。貧乏でも百姓をしていればモチが腹いっぱい食える。M町で楽をするよりおれは百姓をしてモチを腹いっぱい食う方がいい』と言ってこの話を断ったのだそうであります。山内という名字も、谷内に似てはいますがよくよく考えてみますればこの村には他にありません。奇妙なことです。実はこれにも別の話が残っておりまして、そのM町の山内の父親が与太郎じいさんの家とお宅様が最初に訪ねられた山田の家の両方に縁があった人で、双方の家ともにおろそかにできないというわけで、一字ずつとって山内と名乗ったのだそうであります。まあ、何分明治の初めの頃の話ですからそういうこともあったかと思います。老骨はもう九十に手が届く歳になりましたが、こうして息のあるうちにお宅様が訪ねてこられたのも何かの困縁でござりましょう。

 三 山内重蔵のこと

 山内医師は短い休暇を利用しての先祖の調査であった。彼はこのあと老人宅に保存されてあったこの村の明治初年の戸籍台帳や寺の過去帳あるいはM市の戸籍係などにあたり、祖父の生い立ちを懸命に調べた。旧M町の小学校校長を長く勤めたということだったので、現在のM市立M小学校に保管されている退職者の履歴書も閲覧した。
 谷内老の親戚筋にあたるという家の墓地は、松林の美しい丘の上にある。その墓はなぜか代々の墓から少し離れたところにあった。八十センチほどの高さの御影の石塔である。風化が進み、かすれた墓碑名には「寒山玄意居士」と読めた。山内医師の祖父山内重蔵氏の養父山内兼吉氏の戒名である。裏に明治三十八年○月○日と日付だけが入っているが、兼吉が亡くなったのは明治二十八年であるからこれはおそらく重蔵が十回忌に故郷に戻り、建てたものだろうということになった。寒山玄意とはまた随分と渋い戒名である。『このような戒名を普通はつけないものだ。何か特別な意味でも込めたのかのう』老人はぽつりとつぶやいたものである。この家の現在のご当主は例の与太郎のお孫さんに当たるが、兼吉については全く聞かされていない。山内医師と同じである。人は子孫に語り伝えない多くの物事を抱えて消えて行くのだろうか。
 何しろ明治維新前後のことである。皆それぞれが生きるのに精一杯であったのだろう。山内兼吉にまつわる話は「山内」という名字の謂れの他は何も残っていない。しかし、当時の戸籍台帳などから、山内医師は自分の先祖についていくつかのことを知ることができた。それによれば、もともと山内兼吉は谷内老の親戚筋の家の戸主で、谷内七兵衛と名乗っていた。ところが戸籍上は明治十年ごろ(兼吉五十歳のころ)子供に家督を譲り、自分の家の籍を抜け出ている。ただ隠居するのではなく除籍である。同時に山内の姓を名乗った。番地から推定すると住まいは自分の家から二百メートルほど離れたところである。谷内老も驚いたことなのだが、そこは谷内家のすぐ隣であった。現在は道を挟んだ向かいの家の畑地になっている。おそらく粗末な家屋だったろう。まもなくして隣村の医者夏木家からたつという名の女性を養女に、次いでその弟の重蔵を養子に迎えている。たぶん、たつが夏木から弟を呼ぴ寄せたものであろう。兼吉は明治二十八年に没した。このとき重蔵はN市にある師範学校を卒業し、N県小学校訓導となっていた。二十九歳で校長になり、M町に転勤の後「士族」の娘と結婚した。後にはM小学校長を勤めるかたわらM専修女子学校長を兼務したりした。重蔵が兼吉の石塔を建てるのは養父の没後十年を経過した明治三十八年である。

 四 寒山玄意居士と天狗党

広辞苑で「寒山」を引くと次のようにある。・・・唐の僧。国清三隠の一。天台山の近くに拾得と共に住み、奇行が多く、豊干に師事したと伝える。その詩は寒山詩の中に収載。文殊の化身と称され画題にされる。生没年不詳・・・この後の話は推測の域を出ない。しかし、越後の北はずれの片田舎で水呑み百姓らしからぬ数奇な人生をおくったらしいこの兼吉については、次のようなことも実際にはあったのではなかろうかと考えられた。
 片田舎とはいえ北越後も幕未の頃は物情騒然たる様相を呈していた。幕末からは少しさかのぼるが、文化十一年には有名な北蒲原郡騒動が起きている。水呑み百姓たちは唯唯諾諾とお上に従っていただけでは無かったのである。明治維新前後には中央から訪れる思想家もおり、農村にもいくつかの政治結社が形成されている。天保生まれで幕末の頃三十歳くらいの年齢であった兼吉がこのような運勤に関わったとしても不思議ではない。女房子供を残して出奔同様に一度家を出た男には、世情が安定し故郷に戻ろうとしても元の家には入れない事情でもあったのだろうか。医者の夏木との縁組みも、ただの水呑み百姓の兼吉では理解しがたいが、思想家兼吉と同志あるいは支援者の夏木との関係と考えれぱ理解できる。寒山という戒名からすると晩年は静かに余生をおくったのであろう。そして、おそらく兼吉の行跡を知るものは、縁あって養子となった重蔵の他になく、その重蔵もM町「士族」の重しのために、わが子や孫にも伝えることなくこの世を去った。
 一九九x年の旧盆の頃、谷内老のもとに一通の葉書が届いた。以前に、先祖のルーツ探しの件で何度か訪れたことがあり、その後手紙のやりとりもした山内医師からの久しぶりの便りであった。そこには、先祖をつきとめることができたお礼と、M市にある菩提寺で山内兼吉の百回忌の法要を営んだ旨の報告があった。追伸として、祖父の遺品の中に何故か水戸の天狗党の旗があった旨が添えられていた。



あとがき
 このページの内容は,実録をもとにしているが,あえて関係の団体や人物名は仮名,匿名とした.今から30年ほど前,新潟県胎内市にある生家に寄ったとき,偶然この話の医師と一緒になった.医師は何度も訪れていて,私がお会いしたのはある程度,その家のルーツが見えたあとだった.本文では触れていないが,医師の四代前に当たる人がその家のルーツであり,家のあった場所は偶然にも,私の生家のすぐとなりの空き地であった.そのような話はそれまで全く聞いていなかった.明治41年生まれの父もやはり知らなかったという.そういえば,ということで次のような話をしてくれた.
 ・・・父親(私にとっては祖父)は,自分が十四歳の頃亡くなったので,そういう話を聞く機会はなかった.天保生まれの兼吉と明治八年生まれの父とでは,世代が違いすぎて,例え隣家でも交流はなかったのかもしれない.兼吉が亡くなったあとに他村から嫁いできた母親が,「そこには昔,家があって,変人が住んでいたそうだ」と言っていたのを憶えている・・・
 変人という言葉はどちらかというとマイナスのイメージがあるが,言い得て妙な表現なのかもしれない.兼吉の行跡はよくわからないが,幕末の動乱のなにがしかの運動に関わっていたとしたら,郷里に戻ってきても居場所はなかったろう.ましてや,天狗党の活動などに加担していれば,仲間の多くは死罪になっているはずだ.生き延びて帰ってきても,過去のことを村人に話すこともなるまい.養子にとった山内重蔵(仮名)はその辺の事情は承知していただろう.しかし,彼は数年の後に新潟の師範学校に入るためにこの村を去った.卒業後は訓導,校長として各地の小学校を回った.しかし,重蔵は老いた義父に会うためにこの村を訪れることはあっても,村の小学校に勤めることも,居を構えることもなかった.そして,寒山玄意居士の行跡はその子供にさえ伝わることがなかったのである.
 この話は題名の通りプライベートな内容である.それをあえて紹介するのは,拙ホームページ「新潟の地震を考える」の立ち上げの動機に通じている.「こんなことは誰でも知っている」,「自分がやらなくとも誰かやるだろう」という考えは,結局「誰も知らない」,「誰もやらない」ことになって,多くの事柄が歴史の屑籠に埋もれてしまうことになる.片田舎の一軒一軒の歴史でもそれが積み重なって村の歴史があり,さらに郷土の歴史がある.この「先祖探しの旅」をきっかけに,私の本来のライフワークである歴史地震の調査の範囲を超えて,「小さな」郷土史にも畑を広げていくことにした.昔語りができる古老が生きているうちに,どんな些細なことでも聞き取っていきたい.私一人では無力だが,このような小さな郷土史づくりに多くの人が関わり,記録を残していけば,無数の点ができる.点は繋がって線ができ,やがて面をつくり,形ができて,郷土のいきいきとした人物の歴史が見えてくるに違いない.

 [著者]
 河内一男 
KAWAUCHI Kazuo
新潟薬科大学非常勤講師(地学担当)

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