随想・その他

2019年6月4日掲載 20年5月8日、22年3月8日更新 

飯豊連峰朳差岳の雪形「鯛頭」と胎内川

タイトル

 朳差岳は飯豊連峰主峰の飯豊山から北西へ20km、高度は低いながらも最北端の堂々たる山容です。北西斜面の雪形は古来より鯛頭(たいのかしら)と呼ばれ、岩船蒲原郡境地方の里人の間で親しまれてきました。鯛頭が現れるのは五月上旬頃です。これが中旬から下旬頃になると鯛頭の形が崩れ、朳(えぶり)の形に変わります。これは土地ではいぶりと発音します。田植えの前の代かきをする農具です。野球部の生徒が整地用に使っているあれです。朳が山に現れると「それ、いぶりを差せ」と代かきを始めたのでしょう。厳密に言うとこの雪形は分水嶺鉾立峰の北側にあり、溶けた水は胎内川ではなく北の荒川水系へ流れ落ちます。それでも、鯛頭は胎内川扇状地の方からよく見えるので、この土地のシンボルだったのです。また、明治二十年頃までこの川は現在の河口ではなく、扇状地の扇端をなぞるように蛇行しながら、北方の荒川河口まで滔滔と流れていました。

  胎内川という川名の由来については、文字の解釈からの後付けと思われる通説があります。上流部が峡谷になっていることから「母の胎内くぐり」の川。あるいは下流部が扇状地で伏流水になっているから「母の胎内」の川というものです。しかし、地元では「たいながわ(あるいは訛って、てえながわ)」と呼んでいて、方言を使わない人はともかく、私が子供の頃の大人で「たいないがわ」と発音する人はいませんでした。私が通った小学校は大出小学校と言います。私が在学中に制定された校歌に「胎内の流れ豊かなる」という一節があります。これは七五調で「たいなの流れ豊かなる」と歌うように指導されていました。作詞家は地元の人の呼び方を知っていたのです。そこで気がついたのが、高校日本史の教科書でしばしば引用される「中条氏文書、奥山の荘・波月の条絵図(図中の絵図。詳説日本史、昭和43年、山川出版による)」です。しっかりと「太伊乃河」と書かれているではないですか。絵図が書かれた鎌倉期は「たいのかわ」と呼ばれていたことは明らかです。

 連体助詞の「の」は「な」に転訛します。例えば当県妙高市杉野沢の苗名滝は、なゐ(大地あるいは地震の意)の滝がないなたき、そしてなえなたきです。また六月の旧暦名水無月は、水の月からみずなづき、みなづきと転訛したというものです。もう一つ。田んぼの水の取り入れ口のことを「みなぐち」と言います。これは水の口からの転訛です。「たいのかわ」が「たいながわ」に転訛するのは自然なのです。転訛したあとはもとの文字は伝わりません。川の名前に「胎内」の文字が当てられたのは、知識人が盛んに地誌を書くようになった江戸後期あたりでしょうか。
br>  雪形の朳差岳や飯豊連峰は現在地元では単にウシロヤマと呼びます。これは私の推測ですが、江戸期までは「たいのかわ」に対応して「たいのやま」という呼称もあったと思われます。文字を当てるのにウシロヤマでは具合が良くありません。「たいのやま」が「たいなやま」に転訛したあとの当て字として通説の文字が登場したのでしょう。江戸後期に描かれた(模写された)「越後古代図」には胎内山と書かれています。当時の文化の中心地中条の町からは、山そのものが鳥坂山という前衛の山に遮られて視界に入りません。また、村上や新発田の城下からは山は見えますがこの雪形は見えません。知識人たちは在地から望める雪形に思いが至らなかったのです。そして、いかな博覧強記の人たちも「太伊乃河」と記された中条氏文書は知らなかったのでしょう。中条氏は当時米沢の上杉家中で、件の文書は門外不出であったはずですから。
 兎にも角にも、古来より土俗はこの川の水の恩恵を受けてきました。そして度々の洪水に悩まされてきました。里人は仰ぎ見る山をその雪形から「たいのやま(後に、たいなやま)」と呼びます。そこから流れ出る川の源として想いを寄せたのでしょうか。あるいは畏怖の念にかられたのでしょうか。川は「たいのかわ(後に、たいながわ)」と呼ばれ続けてきたのです。

  明治の世になって、学校で文字を習うようになったこの川の下流の里人は地図帳に書かれた「胎内」の文字を怪訝な目でみることになります。それでも、他のこともそうであるように、人々の生活にはどうでも良いことですから唯々諾々と受け入れます。さらに、これは後に隣村との合併後の市の名称にも使われました。現在、たいながわ、てえながわと発音する老人も少なくなりました。「たいなのながれゆたかなる」と歌った小学校は平成六年に統廃合され、今はありません。



補足(わかりにくいところがありますので)
 件の朳差岳を「鯛の山」と呼んでいたのが「たいなやま」に転訛しました。訛った時点で文字(漢字、つまり鯛の山)は消えて音だけになります。後に地誌が盛んに書かれるようになります。平仮名は普通使いませんからその頃に胎内山という文字が当てられたのでしょう。鯛の山から流れ出る鯛の川、太伊乃川も、文字が忘れられて「たいながわ」と音だけになった時点で同前です。本家本元の胎内山の呼称は消えましたが、川名だけが残ったというわけです。

 2022年3月8日追記 橘崑崙著「北越奇談」(文化八年・1811年 野島出版1978年復刻)の巻之一に越後の川名の記述があります。この中の加治川と荒川のあいだに「絶名川」という記述を見つけました。ふりがなは「たへな」です。鯛の川が、たいな川、さらに転訛して江戸後期には、たえながわ」と呼ばれていたことがこれではっきり確認できました。そういえば、私の子供の頃の地元でも「たえながわ」と発音する人もいたようです。

 [著者]
 河内一男 
KAWAUCHI Kazuo

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