日本海東縁プレート境界の地震地学
Seismo-Tectonics on the Eastern Japan Sea Plate Boundary

新潟の地震を考える
My View about Seismicity around Niigata Region

2012年6月1日掲載
2015年2月26日更新

地震の揺れが見える!? You can see the shaking of the earthquake! ?
 


 地震の揺れが見える!?[2012.4.1]

 江戸期に越後平野で起こった二つの被害地震(A)1670年四万石地震(西蒲原地震)と(B)1828年三条地震では地震の揺れの伝わった方向が観測されています.つまり地震そのものが見えた,しかもその方向までわかった,というものです.それぞれ河内・大木(1996),河内(2002)に基づいて紹介します.

(A) 四万石地震(西蒲原地震)の場合
 『中蒲原郡誌上巻』〔新潟県中蒲原郡役所(1918)〕にある記述です.
 寛文度の地震 寛十庚戌年,五月五日四ツ時より大地震,西南の間より動出し,山も抜,家も潰,その年ハ度々震り申候,依テ假小屋懸ケ,二十日も三十日迄も罷在候
 後半の読み下しは次のようになります.
  ……西南の間よりゆりだし(あるいは動き出し),山も抜け,家もつぶれ,その年はたびたびゆり申し候.よって仮小屋をかけて,二十日も三十日もまかりありて候.

 この内容を含む「1670年西蒲原地震の震央の再検討について」を1996年の日本地震学会秋季大会で口頭発表しました(同じ内容を同年に学会誌「地震」第49巻,P.337-346で掲載・発表).「西南の間より」という記述が当該の地震の震央を推定する有効な材料であると考えたからです.地面の波が見えるという内容が当時としては奇想天外だったのでしょうか.前列にいた数人の会員が笑い,うち一人の若い会員は机をたたくしぐさをしました.聴衆の多くは越後平野の「平さ」を実際に見たことがなかったからです.そのあと「越後平野では地平線が見えます.小高い平野周縁の丘からだと50km程度は視認できます.秒速5kmの地震波でも,10秒間は目視できる勘定です(軟弱地盤の表層部ではP波でも秒速1ー3kmですからもっと時間がかかります).地面の盛り上がりが見えたかどうかは別として,立ち木がゆれたりするのを見て,地震つまり地面の揺れが西南の方角からやってくるのがわかった,とこの文面から解釈できるのです」という趣旨の説明しました.それで,ようやく多くの会員が頷いたという曰くつきの発表でした.前後して投稿した論文の審査ではこの記述についてのクレームはついていません.これで,地面の揺れ(地面の波,地震波)が見えること,そしてそれの伝わる方向さえ時に見えることがある,という当初は「奇想天外」と受け取られた現象は広く認知されたのです.観測地は現在の新潟市秋葉区ないし江南区と推定されます.

(B) 三条地震の場合
 小泉其明・蒼軒が筆写した新発田藩領の被害記録「組々書上帳」によります.力不足のため誤りもあるかもしれませんが,読み下し文に改変しています.

・大風起こり渺々と吹き渡り候内,何の音と申す義相分からず,遠方にて物の轟き候声,風に乗り相聞こえ候うち,忽ち大地震西から東へ揺り来たり…

・風音に交じり,何か鳴動仕り候声これあり,何事にて候かなと四方見回し候うち,江堀の内へ振い転がり,起きあがり候義相成らず(中略),岸に掴まり見受け候ところ,四面平地大波の如く撼れ立ち,その波西より来たり,東の庄瀬村の方へ参り候につき,よく見留まり居り候えば,庄瀬村は右の波影に(中略),見えつ隠れつ致し候.

・入倉新田名主源兵衛,蔵内村名主勘右衛門,(中略)十二日早朝両人引き取り,鴨ヶ池村を通路縄手道半途(原文のまま)へ出懸け候処,西南の間より俄に烈風吹き来たり,迅雷の如き音仕り候に付き,果たして大荒れと心得,立ちかね候かと思い候うち,即時に両人共,後ろへ取り転び,狼狽(あわてて)起きんと仕り候処,また前へ倒れ,勘右衛門義は田方へ落ち,誠に夢の如し.右の中(うち),その辺の田方の一円は波濤の如し.木々は地を薙ぐに等しく,所々俄に煙気が立ち,乾き居り候田方に忽ち泥水が押し流れ申し候.

 これらの観測地点は上から順に現在の加茂市,新潟市南区(旧白根市),三条市付近です.なお,小泉其明が書き残した子孫への訓戒集ともいうべき「懲震ひ録」(注1)という冊子にこれらの地面の波の様子が描かれています(図1).

 この項で引用した文章と図は新潟市立新津図書館所蔵「蒼軒文庫」等の文書類および五十嵐与作「資料三条地震」によります.なお,「懲震ひ録」(注1)については,最近,地元篤志家による翻刻本が完成し,閲覧しやすくなりました.


タイトル

図1 小泉其明の「懲震ひ録」(注1)から.地面に「〃」の模様があるのは刈り取った稲の切株で,この部分は地面の揺れた様子を描いている.背景の無地の「山形」は遠方の山並みだろう.「庄瀬村は右の波影に(中略),見えつ隠れつ致し候」という目撃談をもとに,小泉其明が想像して描いたものと思われる.
Figure 1 From Koizumi Kimei's "Choshinhiroku". The "〃" patterns on the ground are harvested rice stumps, and this part depicts the shaking of the ground.``Yamagata'' in the background is probably a distant mountain range. It is believed that Koizumi Kimei imagined and drew this image based on an eyewitness account that " Shoze Village was visible and hidden between the waves mentioned above.''

(注1)「懲震ひ録」:ひ(機種依存文字)は比の下に必と書く.


また,1964年新潟地震のときにこれと良く似た状況が再現されました(図2).この場所は液状化で傾斜,転倒した県営河岸町アパートのすぐ近くに位置します.これについて,青木滋先生(新潟大学名誉教授)は「地盤の実際の上下変動が反映されたものであろう(談)」としました.筆者を含めて,地震時に軟弱地盤上でこの地震に遭遇した人の多くはこの意見に同意しています.周辺の木造家屋に損傷が見られないようですが,(他の場所で)木造家屋が震動時には膨らんだり縮んだり,水面の木の葉が波にもまれるように運動していたという目撃談がいくつか寄せられています.三条地震で小泉其明が描いた画(図1)のような揺れは1964年6月16日に再び多くの人々によって目撃されていたのです.

タイトル

図2 1964年新潟地震直後の国鉄(JR)白新線白山駅東方のようす[新潟日報社(1964)「新潟地震の記録」による].
Figure 2: Situation east of Hakusan Station on the JR Hakushin Line immediately after the 1964 Niigata Earthquake [according to Niigata Nipposha (1964) "Records of the Niigata Earthquake"].


参考文献

河内一男・大木靖衛,1996,1670年西蒲原地震(M63/4)の震央の再検討,地震2,49,337-346.
河内一男,2002,三条地震(1828)に伴う異常現象 ―「小泉蒼軒文庫」から―,歴史地震,18,74-76.
 [著者]
 河内一男 
KAWAUCHI Kazuo
新潟薬科大学非常勤講師(地学担当)

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