日本海東縁プレート境界の地震地学
Seismo-Tectonics on the Eastern Japan Sea Plate Boundary

新潟の地震を考える
My View about Seismicity around Niigata Region

  2012年3月5日追加

新潟は津波の少ないところ? Is Niigata a place with few tsunamis?
 


  新潟は津波の少ないところ?[2012.3.5]

 私が小学生だった頃,先生が私たちを安心させるために語ってくれた話の中の一フレーズです.「いなむらの火」の紙芝居を見せてくれたあとの話だったと思います.世間では「新潟県は地震の少ないところだ」と良く言われていました.江戸期のみならず近代以降も被害地震に繰り返し見舞われており,津波伝説もあったのですが,当時は「人心を動揺させない」という教育的ないし政治的配慮が優先していたのでしょう.また話は複雑になるのですが,これは一面においては正しいのです.日常的な微小地震の活動度は関東地方に比べてとても低いですし,「津波被害」も,日本海は狭いから遠地地震による被害は少ない,海岸がリアス式でないから波が増幅しない,ということ自体は事実ですから,多くの学校でそのように教えていたのかもしれません.

 新潟地震が発生するのは1964年でこの話の数年後のことです.日本海側での津波災害はその後も1983年日本海中部地震,1993年北海道南西沖地震と繰り返され,多くの死者を出しました.

 日本海東縁のプレート境界  の図3「中部地方の被害地震分布」をじっくりとご覧ください.過去65年間の被害地震は長野,岐阜を含めて新潟・石川・福井県等の日本海に近い部分に集中しています.しかも太平洋側の地震の震源が沖合100〜200kmの遠くて深いところで発生するのに対し直下の浅いところで発生することが多く,たとえ規模が小さくとも地面の揺れは大きくなります.これらの事実は,この地方の地震・津波の危険度が関東・東海地方に比べても決して低くない(それどころか,戦後65年間の中部地方では新潟・長野―石川―福井の地方に集中していた)ということを示しています.
 


  たしかに被害は少なかった.しかし…

 宝暦十二年(1762年)佐渡沖地震という被害地震があります(「越後・佐渡の津波被害」のページ参照).このとき,佐渡国願村で戸数19軒のところ18軒が流された大変な津波が発生したのに,越後側での津波被害の記録がありません.そのことから,当初の震央の誤り(理科年表では現在も震央を越佐海峡としています)を北方に修正した後も,震央を佐渡の真北から北西側とする考えが今のところ主流です.しかし,前述のページで説明している通り,私はこの地震を新潟地震型の固有地震(注1)と捉えており,震央をより越後側に近い佐渡北東方の粟島付近と考えています.それでも,越後は津波被害が少なかったのです.これには次のような理由があったと考えられます.

・「松浦久蔵日記」(新潟湊)という古記録によれば,当日は東風が強かった.地震のことを記している文章に風のことを書いているのでよほど強かったのだろう.風が強ければそれだけで船を引き上げて警戒する.
・越後側の漁村は東風をダシとかヤマセとか呼んでいて,沖に出るのをとくに避ける.
・日本海側の砂浜の漁村は季節風による飛砂を恐れて,住居を浜の後ろ(内陸側)の海の見えないところに作っている.漁師にとって海が見えないのはつらいだろうが,それほど飛砂や風を恐れていた.それが津波被害を軽減させているのだろう.

 このような好条件にめぐまれたから被害が少なかったのです.浜に出ていれば,あるいは河口等で仕事をしていれば事態は変わったことでしょう.いまの新潟市のように河口近くに住宅や港湾施設が密集しているというような町は,当時はどこにもなかったのです.

 さて,その後の天保四年(1833年)庄内沖地震では越後側でも大きな被害を受けました.この地震の規模は宝暦のときに比べてやや大きく.また,宝暦の頃に比べて河口周辺に諸施設が増加していたためと考えられます.被害は河口にある船着き場や渡し場に集中しました,阿賀野川では二丈(6m)を超える高波が四〜五度襲来,荒川河口では死者30〜40人と記録されています.このとき,佐渡ではまた大きな被害を受けています.真更川・鵜島・願では併せて235軒の家が破損しました.願村は71年後に再び壊滅的被害を受けたことになります.

注1 固有地震:ほぼ同じ場所で繰り返して発生する地震.規模や断層運動の性質が似ていることが多い.


  19戸中,18戸が流されても死者なし[2012.3.5]

 宝暦の地震で村が壊滅した願村について,佐渡奉行所は「家十八軒,土蔵・納屋四拾ヶ所,壱ヶ村残らず流失」したと記録しています.そして「願村の男女百六十人」に百日分の食料を支給したとあります.人的被害の記述はありません.他の地域の記事では怪我人でもその氏名が記載されていますので,記載がないこの文面から,願村での死者はなかったものと推定されます.天保の地震でも同様でした.

 願村の人たちは普段から地震のときは山へ避難という心構えができていたのではないでしょうか.自分で歩けない人もいたでしょう.中には浜に残って舟を守りたい人もいたはずです.しかし,死者を出しませんでした.これは村がかりで人的災害を防いだ成果だったに違いありません.以て鑑とすべき事例です.

タイトル

スケッチは大野亀側から願,二ツ亀島方面を望んだもの.


    
 
 [著者]
 河内一男 
KAWAUCHI Kazuo
新潟薬科大学非常勤講師(地学担当)

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