日本海東縁プレート境界の地震地学
Seismo-Tectonics on the Eastern Japan Sea Plate Boundary

新潟の地震を考える
My View about Seismicity around Niigata Region

沖積平野下の埋没樹は越後大津波の遺物か
  2023年9月12日開始


§1.はじめに
 越後平野北部は明治初期まで,阿賀野川河口から40kmほど北東方の荒川河口まで日本海への水の出口がありませんでした.この間の開削工事(分水路工事)の様子が郷土史家大木金平の,『郷土史概論(1921)』によって詳にされています.


図1  大木金平(生年1875-没年1952)

§2. 樹木は悉く海岸と直角の方向に
 1888年胎内川放水路開削工事と1913年加治川同工事などの際に埋没樹が多く発見されています.大木金平(1921)の記述は以下のようです(句読点は筆者が挿入).
『笹口,荒井浜,胎内河口,堀切河口,阿房堀,加治川河口等より河水氾濫ごとに現れ出ずる樹木や又加治川改良工事の際掘り出されたる樹木又紫雲寺潟沿岸に當る付近より発掘せる樹木又阿房堀開鑿工事中現れ出たる樹木は悉く畧東西の方向に倒れ,根は多く畧東に向かって居るのである.現今沙洲一帯に亘り埋没し居れる樹木も恐らくは同一方面に倒れてゐるものであろう.胎内河口其他より現れ出たるものの中には直径八尺一丈に達するもある.之れ皆多く引き波に倒れたものだといふことである.』
 1888年,1913年は両分水の工事完了(通水)年です.それぞれ,大木金平13歳,38歳の時です.当時としては近年にない大工事でした.物見高い近隣の住民はその様子を実際に見ていたはずです.1921年に出版された『郷土史概論』中のこの部分の記述は,聞き書きではなく,同時代人の実体験に基づくものと考えて良いでしょう.なお,筆者(河内)は胎内川の河口から2kmほどのところで生まれ育ちました.ここは遊び場所でもありました.河口の右岸にはまだ切り通された当時の砂の崖が生々しく残っていて,「砂崩れ」という地名がついていました.開鑿工事当時の様子を表す言い伝えに「一番下の堀の幅はひと一人がやっと通れるくらいだった」というのがあります.通水前の想像図を書いてみました(図2).樹木はこのような切り通しの工事で掘り出されたのでしょう.
 ことごとく東西方向に倒れ,根の多くは東を向いているという観察から,現地性のものであることは疑いがありません.また,大木が言うように引き波が多くを倒したものかもしれません.
図2  胎内川開鑿工事.溝は「ひと一人がやっと通れた」.上流側に貯めた水を一気に流して,通水したものと思われます.砂丘の高さは最大で30mです.


§3.Lost sand dune 
 1993年,現胎内川河口右岸の土砂採集地で二層の腐植層(クロスナ)が発見されました(図3).鴨井幸彦氏のご協力でC14 年代値が得られています.上位が1100 y.b.p.下位が 1700 y.b.p.でした.これとは別に,鴨井・河内(1988)は,上越市直江津と村上市瀬波温泉海岸のクロスナ層の年代測定を行い,2000年前後の値を得ています.これらは富山湾の埋没樹や同海岸の砂丘中のクロスナ〔藤井(1965),藤則雄(1965)〕,さらには酒田砂丘のクロスナ〔山野井(2016)〕とほぼ同じ年代値です.これらのうち山野井(2016)は,砂丘中に見出される数層のクロスナを津波が砂丘を遡上した際に形成されたものと考えました.
 鴨井・河内(1988)が第四紀学会で発表した当時は,縄文後期から弥生期にかけての気候寒冷期(弥生海退期ともいいます)に海岸線が沖合に移動し,砂丘の形成が一時的に停止したためクロスナ層が形成されたと考えました.発表の骨子は現海岸線よりも数km沖合に存在しただろう Lost sand dune でした.しかし,2011年東北地方太平洋沖地震の津波の遡上の様子を目の当たりにすることになります.それは,海底の有機物を巻き上げた真っ黒い海水が砂丘を乗り越える様子でした.発想を根本から変えることも時に必要なのかもしれません.現在のところ,筆者は山野井(2016)と同じ考えで砂丘中のクロスナをとらえています.
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図3 胎内川河口 砂丘中のクロスナ.新潟県立教育センター長期研修員報告(森田,1993) による.



§4.沖積層あるいは砂丘中の埋没樹の例
 越後平野では田圃の地下に径1〜2m の樹幹や樹根が横たわっていることがしばしばあります.これらは,農作業中の耕運機の爪に当たったりして農民の間では古くから「障害物」として知られていました.以下に津波に関連すると思われる埋もれ木発見の例を紹介します.

(1) 1828年三条地震(M6.9)では地震時に噴き上がったという記録があります(新津図書館,小泉蒼軒文庫による).
『曽根水口砂川原へ廻り二尋余り長さ八九間の大木が吹き出し,長左衛門と申す者拾い取る.その節,真黒に御座候ところ,薪に割り干し候えば,鼠色に相成る.何の木とも相わかり申さず.山通りの木挽きに見せ候ところ,沢胡桃と申す木に有之可し哉と申し候.何程年久しく埋まりおり候哉.朽腐申し候』

(2) 2007年中越沖地震(M6.8)では出雲崎沖日本海の沖積層から大量の埋もれ木が「海底に」噴き上がってきました.これは底引き網漁に支障が出たため発見されたものです.

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図4 2007年6月 出雲崎港 新潟日報記事

(3) 新潟東港開設時には掘り下げた砂丘から多くの埋没樹が発見されました.まず 1969 年に海水準−6 ないし −10m で径1m 長さ約10m のものが4本,続いて1975 年に海水準−8mで径1m前後長さ5ないし16mのもの が3 本発見され,そのうち1本のC14 年代が2400y.b.p.でした〔茂木昭夫(1980)〕.

図5 茂木昭夫(1980)による

(4) 平成初期の大規模圃場整備で重機によって多数掘り上げられました.

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図6 平成3年 新発田市二ツ堂

(5) 越後平野最北部の瀬波海岸の汀線から10m,海面から1.5mで埋没樹(C14年代:1850y.b.p.)を含む黒色腐植層が800mに渡って追跡できました.

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図6 1982年8月 村上市瀬波温泉海岸

§5.津波で社寺が移転した?
(1)村上市七湊神社
 この神社は現在海岸から1kmほど内陸の海抜20m地点の集落の裏山を登ったところにあります.(図7)
 『神林村誌』に記載のこの神社の由来を紹介します.
・延喜式神社である
・はじめ岩船潟舟入場に鎮座
・天平年中(729-748)地震・津波で損壊
・延暦年中(782-809)当地に再建
・七湊とは…阿賀川,加治川,姫田川,今泉川,赤川,胎内川,荒川の合流
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図7 村上市七湊神社

(2) 胎内市夏井円福寺の津波伝説
 胎内川の河口から15kmも上流の胎内市夏井(海抜125m)というところに円福寺という寺があります.この寺はその昔,津波被害に関連して,紫雲寺潟(塩津潟)のほとりにあったものが当地に移転したとのことです.
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図8 円福寺:地図のまる印. 紫雲寺町史と黒川村史の抜粋.

(3)胎内市荒井浜神社(海抜24m)
 伝説はありませんがずいぶんと村里から離れた高いところに神社があります.
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(4)胎内市笹口浜神社(海抜24m)
 ここも伝説はありませんがやはりずいぶんと村里から離れています.奇妙に荒井浜と標高が一致しています.
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図10

§6.おわりに
 越後平野の海岸線の遷移については新潟古砂丘グループ(1979など)が良く知られています.「現存する」地質,考古資料に基づいて,内陸から現海岸に向かって新砂丘1*(縄文前中期),同2(古墳時代以降),同3(室町期)と順に横列砂丘を形成されたとするものです.これに対し鴨井・河内(1988)は弥生期の Lost sand duneを提唱しました.すなわち新砂丘3の形成前後に一度現汀線よりはるか沖合まで(数km程度)海退したと考えました.
 海退期(寒冷期)は乾燥化するので沖合には砂丘列が発達します.越後の大津波伝説の「北西海上の島々」は存在しうるのです.大木(1921)の『樹木が東西に向いて倒れていた』という遺物やその他各地の埋もれ木は,新砂丘3(現砂丘)形成以前で,かつ新潟東港が10m以上沈降する以前に,はるか沖合に残存していたであろう砂丘列の島々をのり越えてきた津波により各地で形成されたものと思われます.
注* この数字は通常ローマ数字で表記されますが,サーバ制限文字のためアラビア数字で代用しています.
 [著者]
 河内一男 
KAWAUCHI Kazuo
新潟薬科大学非常勤講師(地学担当)

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