文政十一年十一月十二日に発生した三条地震(推定マグニチュード6.9)の被害のようすは小泉其明とその息子の蒼軒によって克明に記録されていました.
其明・蒼軒の記録はご子孫宅に大切に保管されて今日まで伝わりました.このページの図や引用文はこの記録によるものです.また史料の一部は地元の篤志家の手により翻刻,刊行されています.
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1828年(文政十一年)に越後三条で起きた地震は典型的な内陸の直下型地震でした。この地震では,信濃川に沿って,つまり越後平野の延長方向の北北東−南南西幅約40キロメートル,西北西−東南東幅約20キロメートルの楕円形の範囲の村々がほぼ全滅しました。全壊9808,焼失1204,死者1443の大被害を受けています。ただし,これらは新発田溝口家,村上内藤家,長岡牧野家,与板井伊家などの大名の所領と幕府直轄領からの被害報告を集計した数(田山実や武者金吉の地震史料集による)です。この地は,この他にも小藩や旗本の知行地それに幕府直轄領が混在している上,当日は三条町の市の日で他所から行商に来ている人が多く,実際の被害はもっと多かった模様です。
この地震のとき,越後新発田藩領今町(現見附市)の村役人であった小泉其明とその息子の蒼軒(図1)が,震災時の救出活動や被害調査で大活躍をします。小泉其明・蒼軒親子は二代に渡って越後・佐渡の地図作製に尽力した地理学者で,その名は江戸にも知られていたといいます。地震当時,其明68歳,蒼軒32歳 でした。
図1 左:小泉其明(自画像)。右:小泉蒼軒(其明画)。小泉其明は地図作成に取り組む前は藩主お抱えの絵師であった。
Figure 1 Left: Kimei Koizumi (self-portrait). Right: Koizumi Soken (Kimei painting). Before becoming a cartographer, Koizumi Kimei was a painter for the feudal lord.
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其明は外出先で地震に遭遇しました。そして,その帰路に各地の惨状を見聞きしたり,後に他村のようすを聞いたりして,画帖「懲震秘鑑」(注)を残すことになります。其明の地図作成に携わる以前の本業は画工でしたから,一枚一枚の絵は精緻を極めて写実的に描かれています。画帖は,序文,越後・佐渡全図に被害域を示した図,七言絶句,そして29枚の彩色画が板表紙折本型(見開いた一枚は31cm×45cm)で製本されたものです。
序文ではまず被害の概要を冷静な筆致で記し,また地震時の人々の行動に触れ,ついで次のような子孫への訓戒を述べています。
そもそもこの災いのいみじうかしこきことは,いにしえよりふみにも言にもあまたつたわりてよくしりたる事ながら,誰も誰もよのつねのむかしがたりのごとなおざりにのみ聞き過ごせるから,かくさし当たりてはうつし心もうせけるなめり。さるはうまく腹にあじわいてほどほどにつけて心をも用いおきたらましかば,まさにこうまでにやはあわてさまようべき。
ようよう心おさまりゆくに,とせざりしかくせざりしとくいおもう事もなどかなからん。せめてはこたびかかりけりと左にしるしおきて,子孫(うみのこ)のいましめともなさまほしき事(わざ)かなとおもいよれるまにまに,まずわざわいのいみじかりつる村里のかぎりつばらに問いききて何くれとしたたむるついで,おのれは倒れたる家よりかろうじて遁れ出て,われかの心地ながらもまのあたり見聞きつる有さまのいといみじかりければ,かたにもうつし出て見ばやと思う。ちなみにこの里ならぬもよくしられたるをばかずかずものしてんとす。
ようなきすさみとあざけりわらう人おおかりぬべけれど,当時かしこくわびしかりつる心をもながく思いわすれじ。またかのうみの子のつぎつぎにもつたえてあらかじめ心得おかしめん糧にもとてなん。
其明はここで,地震災害は先人の教えを皆忘れてしまうからいけないのだと言っています。昔の教訓を心にとめて普段から用心しておけば,今回のようにあわてさまようようなことはなかった。そうすれば,もっと多くの命を救うことができたのだ,と切々と訴えています。そして,「せめてこたびはかくありけりと左にしるしおきて」子孫への戒めとしたい,それがこの画帖を残す理由であると続けています。
其名は,燃えさかる炎の中の悲惨なようすを多く描いています。目をそむけたくなるような絵も多いのですが,その悲惨さこそ画者が後世への訓戒としたかったものなのかもしれません。図2では,中央に救助の指揮をとる其明の息子蒼軒と思われる陣笠姿の男,斧をもって駆けつけた者,棒で柱を起こそうとしている者,子供を救出して出てきた者などが活動的に描かれています。其明と蒼軒は,地震時の応急措置が適切であったとして,後に新発田藩から表彰されています。
また,其明と蒼軒は各地の被害状況や地震時の現象などの報告文書を新発田藩から借り受けて筆写しました。幸いにこれが子孫宅で大切に保存されていたために,三条地震の被害状況を今日知ることができます。関係文書は現在「小泉蒼軒文庫」として新潟市立新津図書館に保存されています。なお,画帖「懲震秘鑑」(注)はその複製本を同図書館で閲覧できます。
(注)「懲震秘鑑」:秘の字は正しくは比の下に必と書く.機種依存文字のため秘をあてた。
図2 懲震秘鑑の一枚。今町(現見附市今町)で倒壊した家屋から子供を救い出している様子を描いたもの。中央で指揮をとっているのが其明の息子,小泉蒼軒と思われる。
Figure 2: A piece of the Tyousinhikan. This painting depicts a child being rescued from a collapsed house in Imamachi (present-day Imamachi, Mitsuke City). It is believed that Kimei's son, Koizumi Soken, is in command at the center.
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