日本海東縁プレート境界の地震地学
Seismo-Tectonics on the Eastern Japan Sea Plate Boundary

新潟の地震を考える
My View about Seismicity around Niigata Region

2012年 9月 1日追加 2024年1月29日更新


三条地震の一つ前の地震 ―「四万石領」の地震(西蒲原地震)― The earthquake before the Sanjo Earthquake - Earthquake in the "Shimangoku territory" (Nishikanbara Earthquake) -
 1670年=寛文十年「四万石領」で発生した地震(四万石地震,西蒲原地震)は1828年三条地震と震源域が近く規模が同程度である.越後平野では150〜200年くらいの間隔でM7クラスの地震を繰り返してきた.なお,このページでは被災地=震源域として考察を進める.地盤がほぼ均一な沖積平野の直下で最近起きた被害地震において概ね良い相関が得られるからである.

§1. 寛文十年の越後村上大地震

 1670年(寛文十年)に越後の国で発生した地震(M6.8…注1)は,後述するように1828年三条地震の震源域と半分ほど重なり,いわば三条地震の一つ前の地震です.ところがこの地震は,古文書中の記述を読み違えていたため,つい最近まで実際より50kmも東方の福島県境付近で発生したものと考えられていました.
 問題の古文書は,越後村上藩榊原家江戸屋敷日記の寛文十年五月十四日の条です.原文は本頁末尾を参照してください。ここでは読み下し文で紹介します.

五月十四日庚午 天陰(天気曇り).この日村上より飛脚来る.去る五日,村上において大地震.併し御城中,御家中,町中は別状なし.上川・四万石のうち百姓家五百三軒頽れる.人十三人,馬二匹死す.田畠荒れ,植田ゆりこむなり(原文は本頁末尾).

 ここから被災地を上川,四万石は上川の石高という誤った解釈が生まれることになったのです.正しくは上川も四万石も当時の村上藩で用いていた地方名でした.四万石は文字通り石高が4万石なのですが,石高が地方名になったのにはそれなりの理由がありました.

 村上城周辺の領地(これを当時は城付き領あるいは下川と呼んでいた)は6万石ほどにしかなりませんが,村上領は以前から飛び地として当時上川とよばれていた地域が加えられて約十一万石になっていました.それが榊原家の一つ前の領主(松平家)の時代から家格の関係(松平家も榊原家も15万石格の大名)で,さらにもう一つの南西方の飛び地が村上領に加えられたのです.『新潟県史 通史編』によれば,この領地の石高が約4万石であったためにそれがそのまま当時の村上藩内部で通用する領地の呼称となったのです(図1).新潟県史では詳しい説明は見当たらないのですが,新井白石の『折りたく柴の記』に,四万石と呼ばれるようになったいきさつが述べられています[河内(2008)].白石は「四万石領」とも記しています.なお,上川という地方名は村上藩ではお城のある村上町以北の下川にたいして,新発田藩領の東方と南方の飛び地の総称としても用いられていたようです.したがって上川四万石とは,上川と四万石あるいは広義の上川地方のうちの四万石地区であって,狭義の上川地方(偶然にも狭義の上川地方も約4万石でした!)を指すものではありません.ところで,困ったことに,現在の磐越西線沿いの福島県境に上川という名の行政単位の村がありました.これが誤りを二重にして,宇佐美龍夫さんの地震資料集『日本被害地震総覧』の旧版や理科年表ではこの地震の震央はこの村の近くとされてきました.しかし,それは実際の震央とは約50キロメートルも離れていたのです.その後,宇佐美さんも修正するのですが,狭義の「上川」領のみを震央と考えているようです.

タイトル 図1 榊原家時代の村上藩飛び地「上川」領=1 と「四万石」領=2 .当時は新発田,村松,長岡に別の領主の居城があり,他に出雲崎代官所管轄の幕府直轄領があった.図の星印は修正された震央で菱形の印が新編日本被害地震総覧(1987)が決めたこの地震の震央の位置.その後,1996年の版でもこの位置を踏襲.2003年の版では「上川領」=1 の南部付近に訂正されたが,表紙見返しの分布図では1987年版の位置がそのまま踏襲されている.
Figure 1 Murakami domain enclave "Kamikawa" territory during the Sakakibara family era = 1 and "Shimangoku" territory = 2. At that time, there were castles of other feudal lords in Shibata, Muramatsu, and Nagaoka, and other territories under the direct control of the shogunate under the jurisdiction of the Izumozaki Magistrate Office. The star in the figure is the revised epicenter, and the diamond-shaped mark is the location of the epicenter of this earthquake as determined by the new Japan Damaging Earthquake Directory (1987). This position was subsequently followed in the 1996 edition. In the 2003 edition, it was corrected to be near the southern part of ``Kamikawa territory'' = 1, but the distribution map on the front cover retains the position of the 1987 edition.


(注1)宇佐美龍夫『最新版日本被害地震総覧』による.原典は63/4(62/4〜64/4の幅があるという意味.確度が低い場合の表現)だが表記が困難なので6.8とした.


§2. 正しい震央は四万石領=旧西蒲原郡東部地方

 村上藩江戸屋敷日記には,地震の三ヶ月後に見舞金支給の記事が見えます.

八月十日甲午.天陰.この日,五月五日の村上大地震につき四万石のうち家数五百三十三軒頽れる.申し付けし彼の百姓共,手前罷り成らざり候に付き,一軒に金子壱分充てこれを下さる,然るべき由,申し遣わす.(原文は本頁末尾)

 読み下しが不得手のため、わかりにくい表現もあるかもしれません.以下に意訳して今日的な文章に改めます.

 八月十日甲午.天気曇り.(国元からの願いによると)五月五日に起きた村上大地震の被災地「四万石」の全壊した五百三十三軒の農民が困窮している.それで一軒に金子を一分ずつ支給したいという.この願いに対して,この日(江戸在府の殿様は)そうして良いと国元へ申しつかわした.

 ここでは,被災地を明確に「四万石」と言い切っています.5月の記述は国元からの速報を記したものであり,この8月の方は十分に調査した後の記述であることは,倒壊家屋数が30軒増加していることでも窺い知れます.そこで,わざわざ「上川」をはずして「四万石」とのみ記述している意味は明白です.地震は越後平野中央部,当時「四万石」と呼ばれていた地域で発生したのです。

 この地震を1995年および1996年の日本地震学会秋季大会で発表〔論文は河内・大木(1996)〕したときは修正した震央=「四万石領」が新潟市小新地区,黒埼町,味方村,潟東村,月形村,中之口村,燕市に相当し,これらは明治の市制施行以前は全て西蒲原郡に属する地域であったので,地震名は「西蒲原地震」と呼ぶことにしました.ところが,その後の平成の市町村合併で燕市以外は新潟市に編入されて,震央としての西蒲原郡は消滅(現在西蒲原郡は弥彦村のみ.この村は「四万石領」ではない)してしまいました.それで,2010年の歴史地震研究会〔河内(2010)〕でその旨を説明し,以後「四万石地震」(読み:しまんごくじしん)と呼ぶことを提案しています.このページでは四万石地震(西蒲原地震)と表記します.


§3. 四万石地震(西蒲原地震)の幻影

 歴史地震の震央がどこかということは,地震の長期予測に欠かせない問題で,先人の研究の積み重ねの上に,新しくわかった事実を追加していく作業はとても重要です.また,間違った記録はそのつど訂正しておかないと,将来の研究に再び混乱をもたらすことになります.

 寛文十年(1670年)五月五日に越後国村上領で発生した地震―四万石地震(西蒲原地震)は,さらにいくつかの誤った地震像(幻影.ゴースト)をつくっています.

(1)寛文九年(1669年)五月五日新発田大地震説 これは村上藩に隣接する新発田藩の公式記録「歴代藩主廟記」(本頁末尾の付録図3)の記述から誤って市町村史などに引用されている.地震発生年月日が四万石の地震のちょうど一年前の寛文九年五月五日であることから,日付の取り違えであることは明らか.ただし,この記録から新発田領内でも被害があったことが推定できる.四万石に隣接する新発田領の被害としては,新潟市南区(旧白根市)や同秋葉区(旧新津市,旧小須戸町)が考えられる.

(2)寛文十年(1670年)村上大地震 これは,四万石地方の地震のことで,江戸屋敷から見れば領内の地震は全て「村上において大地震」となる.江戸屋敷日記にもある通り,城中・家中・町中ともに被害は無かった.

(3)寛文十年(1670年)六月五日村上大地震 これは徳川幕府の公式記録である通称徳川実紀(国史大系42厳有院殿実紀による)中の記述自体が誤っていたことによるもの. 徳川実紀の記述は次の通り.

(寛文十年六月)十七日 (前略)榊原熊之助政倫所領越後村上,この五日大地震,民戸六百軒,田んぼ二百余町くずれたる由注進す(日記,年表)

 さらに新潟県内の郷土資料の「稿本越佐史料」には以下の記述がある.

六月十七日 榊原熊之助領内,六月五日午刻地震,民家六百軒余潰れ,植田弐百余丁無田ニ相成候由

 前者は編集の段階で月を一ヶ月取り違えたもの,後者はそれの引用である.

(4)正徳二年五月五日新発田大地震 これは水原町編年史という郷土史が新発田藩史料からの引用として記載しているが,新発田藩史料に該当なし.これも同じ月日であることから四万石地震(西蒲原地震)の年代の取り違えと思われる.

(5)寛文十年六月五日相模国大住大地震 村上藩主と名前が似ている榊原熊之助忠真という旗本が相模国に領地をもっていたことによる間違いらしい.これについては,元神戸大学の石橋克彦さんが詳しく調べて,この地震が実在しなかったことを示している.

 以上のように,四万石地震(西蒲原地震)のゴースト(幻影)は,県内,県外のあちこちで発生していたのです.


§4. 四万石地震(西蒲原地震)の規模

 寛文十年越後村上藩領四万石地方を襲った地震(四万石地震(西蒲原地震))の規模はどれくらいだったのでしょうか.歴史時代の地震の規模をあらわすマグニチュードMは,浅いところで発生した地震の場合,その地震の揺れがどこまで伝わったのかということを知ることによって推定できます.震度は特定の地域の揺れの強さを表す量ですが,ある震度の領域がどれくらいの広がりをもつかで,歴史時代の地震の規模マグニチュードを間接的に求めることができます.また各地での揺れの記録があまりない場合でもその地震による被害の状況からおおよその見当をつけることができます.

 この地震のものと思われる寛文十年五月五日正午頃の揺れは,以下の地域で記録されていました.

江戸 ・五月五日晴天未の刻地震「対馬藩毎日記」
   ・五日 致地震候「守山藩日記」
   ・一,五月五日昼九ツ半過ニ大地震(中略)八ツ半ニ又地震右之半分程大ニする又七つ時分ニも少(後略)「名倉信光日記」…これはその後会津若松での記録であると訂正されている〔石橋(2010)〕
盛岡 ・五ノ五日雨降辰ヨリ霽午ノ刻三度地震当未刻晴「雑書」
弘前 ・五月五日雨降一,九ツ半時ニ地震「津軽藩御日記」
〔以上のうち石橋による訂正以外は『新収日本地震史料 第二巻,補遺』,東京大学地震研究所(1982,1989)による〕
佐渡 ・五月四日夜大雷翌日地震「佐渡年代記」〔佐渡郡教育会編(1940)による〕

 江戸,盛岡,弘前での揺れの強さを示す記述はありませんが,少なくとも震度2程度でしょうか.これらのことと被害の状況から総合してこの地震のマグニチュードMは6.8程度と推定されています(注2).三条地震とほぼ同じ程度の大きさです.被害が比較的小さいのは湖沼が多く村落が未発達だったためです.米の収穫高から推算した当時のこの地方の人口は三条地震の頃の10分の1でした.被災地の四万石領は信濃川の分流である中ノ口川の左岸沿いの南北に細長い地方で,現在の新潟市小新,旧黒崎町,旧味方村,旧潟東村,旧月潟村,旧中之口村,燕市,三条市がそれに相当します.この他,西方の旧分水町や旧寺泊町も四万石地方に入りますが,位置関係からここでは被災地から除外します.ここで,新潟市南部から三条市にかけての南北40キロメートルくらいの長円形の地域を震源域とすると(図2),推定したマグニチュードとおおむねつり合います.震源域というのは地震を起こした地下の断層(震源断層)を地図上に投影した広がりを指します.この震源域の面積や長径の長さは地震の規模と良い相関関係にあります.浅い直下型の地震の場合は震度6の領域が大体これに一致するので,歴史地震の規模の推定に用いられます.

 四万石地震(西蒲原地震)の震源域と,その158年後に起こった三条地震の震源域との関係を図3に示します.この図から二つの地震の震源域が半分くらい重なることがわかります.このことは,この地域でマグニチュード7弱の地震が繰り返されたことを意味しています.

 参考のために,1964年新潟地震(M7.5)の余震分布と1833年庄内沖地震(M7.5)の推定震源域を示します.余震分布域が震源域にほぼ一致することがわかります.


タイトル

図2 1670年四万石地震(西蒲原地震)の震央(★)と推定震源域.震央を点で示すことには無理があるが,それまでの誤った震央と区別するためあえて表現している.Eの地域の古記録に「その波,西南の方より揺りだし」とある.幕府の記録,徳川実紀に村上藩の報告はあるが,出雲崎に陣屋があった幕府領のA地域や榊原家(村上)と同じ譜代大名の牧野家(D地域,長岡)の報告がないことから,「四万石」地方の西半分は被災地=震源域から除外した.溝口家(新発田)の江戸屋敷記録にも「新発田大地震」とあるが,これはB地域とC地域にある同家の領地に関連している可能性が高い.
Figure 2 Epicenter (★) and estimated epicenter area of ??the 1670 Shimangoku Earthquake (Nishikanbara Earthquake). Although it is unreasonable to indicate the epicenter as a dot, we purposely express it in order to distinguish it from previous incorrect epicenters. Old records from area E say that ``the waves began to shake from the southwest.'' Although there are reports of the Murakami clan in the records of the shogunate, Tokugawa Jikki, there are no reports of the A area of ??the shogunate's territory, which had a camp at Izumozaki, or the Makino family (Area D, Nagaoka), which was the same feudal lord as the Sakakibara family (Murakami). Therefore, the western half of the Shimangoku region was excluded from the disaster area = epicenter area. The Edo mansion records of the Mizoguchi family (Shibata) also mention the ``Shibata Great Earthquake,'' but this is likely related to the family's territory in Areas B and C.



タイトル

図3 1670年四万石地震(西蒲原地震)(M6.8)と1828年三条地震(M6.9)の推定震源域.以前の誤った震央(星印)と訂正された震央の位置(×)も示した.
Figure 3 Estimated epicenter areas of the 1670 Shimangoku Earthquake (Nishikanbara Earthquake) (M6.8) and the 1828 Sanjo Earthquake (M6.9). The previous incorrect epicenter (asterisk) and the corrected epicenter location (×) are also shown.


[文献]
石橋克彦,2010,1670年寛文越後地震の震源域 ,第27回歴史地震研究会講演要旨集.
河内一男・大木靖衛,1996,1670 年西蒲原地震(M63/4)の震央の再検討,地震2,49,337-346.日本地震学会.
河内一男,2008,1670年西蒲原地震の被災地「四万石」について地震. 地震2, 60, 291-295, 日本地震学会.
河内一男,2010 ,越後三条地震の震央は平野中央部であったか,第27回歴史地震研究会講演要旨集.


タイトル  
付録図1 越後村上藩榊原家江戸屋敷日記寛文十年五月十四日の条.1995年複写(上越市立高田図書館).十四日庚午 天陰是日従村上飛脚来去五日於村上大地震併御城中御家中町中無別条上川四万石之内百姓家五百三軒頽死人十三人馬二匹田畠荒植田ユリ込也


タイトル  
付録図2 越後村上藩榊原家江戸屋敷日記寛文十年八月十日の条.1995年複写(上越市立高田図書館).十日甲午 天陰是日五月五日村上大地震付四万石之内家数五百三十三軒頽申付彼百姓共手前不罷成候付一軒ニ金子壱分充被下之可然由申遣(後略).


タイトル  
付録図3 越後新発田藩溝口家江戸屋敷日記寛文九年〜十年の条.1995年複写(新発田市立図書館).        


 [著者]
 河内一男 
KAWAUCHI Kazuo
新潟薬科大学非常勤講師(地学担当)

記事一覧
・Top Page 日本海東縁のプレート境界[19.6.19]

・新潟県の最近の地震活動[19.6.19]

・海底地滑りや火山が起こす津波[19.1.1掲載]

・活断層とは ―重要なところは隠れている―[16.8.11]

・日本海東縁のプレート境界 [16.6.19]

・新潟地震・昭和大橋の落橋

・越後の大津波伝説[15.9.11]

・越後・佐渡の津波被害,越後の大津波伝説

・失われた陸地 ―康平図にある島々の意味―[12.8.1]

・信濃川地震帯と地形・地質

・地震鳴動(地鳴り)予知された地震[15.10.13]

・信州大町地震の断層運動[14.11.23]

・三条地震の一つ前の地震 ―「四万石地震」(西蒲原地震)―[12.9.1]

・信濃川地震帯の長期予知 ―最悪のシナリオを…―[12.8.26]

・小泉其明・蒼軒と三条地震

・中越・中越沖地震の震源断層

・中越沖地震の断層線[16.6.30]

・津南町外丸の大崩れ [16.5.10]

・液状化について

・海風と陸風[19.1.3掲載]

・海陸風と災害[19.1.3掲載]

・海陸風と原発災害の放射線汚染の帯[19.1.3掲載]

・どんなときに里雪になるのか[18.1.25掲載]

・沖積平野下の埋没樹は越後大津波の遺物か[23.9.16]
・これまでの主な論文・最近の学会発表要旨

・著者プロフィール、地震地学以外の話題[19.6.19]