1 東頚城,魚沼地方の地震活動
高田平野の東方の東頸城・魚沼地方は新潟県内では微小地震活動が比較的活発な地域です.M5程度以上の中規模の被害地震もこの26年間で9回発生しています .この様子を理解していただくために,別ページ「TOP PAGE」の表1,図1,2を再掲します.
表1 地震リスト(1990〜2024年 M>=4.5).最新データは防災科学研究所による. データは自動計算のため、各種数値は暫定値である. Table 1 Earthquake list (1990-2024 M>=4.5).The latest data is from the Disaster Prevention Science Research Institute. Since the data is automatically calculated, various numerical values are provisional values.
この表では緯度経度を60進法(小数点以下を分単位)で表記しています.これは図面製作に国土地理院地形図を利用したためです.下の図9においては,中小規模の地震が主体なので,図2,3のような震源の広がり方は表現せず,規模を円の大きさで示しました.2004年,2007年,2011年,2019年の余震は割愛しました.2024年(能登半島地震)の佐渡付近の余震は当面掲載します.なお,この余震のデータはHi-net自動震源情報によるため,気象庁の速報値とは一致していません
図1 分布図(1990〜2024年 M>=4.5).
Figure 1 Distribution map (1990-2024 M>=4.5).
図2 M−T図(規模と時間の図,1990〜2024年 M>=4.5)
Figure 2 M-T diagram (scale and time diagram, 1990ー2024 M>=4.5)
このように地震活動の活発な地域なのですが,2004年に中越地震が発生するまではM6以上の地震記録は知られていませんでした.西方の高田平野とその周辺で,1666 年寛文高田地震(M6.8),1751年宝暦高田地震(M7.2),1847年弘化高田地震(M6.5)が発生しているのと対照的です.このため,この地域は中小規模の地震活動や活褶曲で間歇的または継続的にひずみが解放されているのではないかと,これまでは考えていました.ところがこの地域の東部で2004年10月23日にM6.8の新潟県中越地震が発生しました.さらに2011年3月12日に,2004年の震源域の南西方延長の長野県境でM6.8の長野県北部地震が発生しています.結果的には中小地震や活褶曲の活動でひずみは完全には解消されていなかったことになります.
この状況は,東北地方太平洋沖の活動とよく似ています.日本海溝の宮城県沖〜青森県沖の日本海溝のM7-8級の地震活動は,近代的観測が開始された明治期以降も繰り返し発生していました.これに対し福島県・茨城県沖の日本海溝の地震活動は平常時の中小規模の活動は活発でしたが少なくとも明治期以降は大きな被害をもたらす地震はありませんでした.福島県沖・茨城県沖に大被害をもたらした同程度の歴史地震は貞観十一年(869年)まで遡らなければなりません.記録のないことが地震のなかったことにはなりませんが,少なくとも記録が整理されてきた江戸中期以後に発生していないのは間違いのないところだと思います.
2 津南町外丸の大崩れ
新潟県東頸城・魚沼地方も同様で,江戸中期以降は有意の史料は見あたりません.以下に紹介するものは,明応七年(1498年)と寛永十三年(1636年)のものです(注).
(注):中魚沼郡誌上巻,大正八年十二月二日発行,中魚沼郡教育会編纂(昭和四十八年九月二十日復刻版発行).
明応七年戊午三月十八日夕刻より地大に震ひ,翌十九日の朝,中條村の内轟木東原の山崩壊して,前澤の川まで押し出せり.
寛永十三年丙子 十一月六日の夜 地震ひ(ちふるい)、外丸村地内田沢入りの鍋倉と称する土地、押し出し、田沢と称する三戸の部落を剥落し去て、田沢川を堰き止め、水を湛えること約二旬、その山麓なる原部落八戸のもの、田沢川の水、流れざること久しきを訝り、雪踏み分けて水源に遡れば、湛水滉漾(たんすいこうよう)として、今や将に漲溢(ちょういつ)せんとす。驚駭して馳せ帰り、絶叫狂奔して家財を運ぶ。而して未だ半ばならざるに溢流山皮を剥落し来たりて、挙村泥中に埋没せらる。
|
前者の被災地中條村轟木は十日町市のJR魚沼中条駅の東約5km付近です.後者の外丸村地内田沢付近については地図(図3)を示します.
図3 寛永十三年の地震に伴う山体崩壊の被災地周辺.国土地理院2万5000分の1による.田沢川の延長上の信濃川が大きく南東方に屈曲している.
Figure 3: Surroundings of the area affected by the mountain collapse associated with the Kanei 13th year earthquake. According to the Geospatial Information Authority of Japan, 1:25,000. The Shinano River, which is an extension of the Tazawa River, curves sharply to the southeast.
|
二つの記述は地震が従で,主は山崩れです.しかし,いずれも規模の大きい山崩れが発生しているようなので,地震はM6.5〜7程度の直下型地震であった模様で,とくに後者の場合は崩壊して田沢川を流下した土砂が信濃川左岸の低位段丘を埋め立てた可能性があります.
図3−3の二つの凹地のうち,仮に下の方が「田沢入りの鍋倉」であったとします.ここで幅300m,長さ600m,厚さ20mの岩盤が崩壊して,全て下流の現在の外丸地区へ流下したとすれば,半径が600mで中心角45度(円の4分の1)の厚さの扇状地を作ります.懐疑的な地質技術者の意見があります.すなわち「田沢川の上流には扇状地部分に見合う崩壊跡がないのでこの信濃川の屈曲は河内が言うような土石流によるものではない」というものです.しかし,これは,もとの地形の高さの見積もり方が小さいためでしょう(注).土石流堆積物があればその上流にそれに見合う山体がかつてはあったと考える方が自然です.崩れてしまった山は今は無いのです.それに見合う崩壊あとがないというのは,一体いつの時代のことを言っているのでしょうか.また,寛政のときに崩壊した土砂は信濃川の流路を変えている土砂全体の一部です.一回の土砂流出でこの地形が形成されたのではなく,過去に何度も同じようなことが繰り返され,さらに川による側方侵食も加わって信濃川の流路を変えてきたと考えられます.
国土地理院の地形陰影図(図3-2,3)は土石流が流下した様子をよく表しています.上述の記録が風化することなく,今後の防災教育に生かされることを願います.
注:そもそも地質屋(私もその端くれですが)には,目の前の露頭の観察(これが事実だ!)を重視し過ぎるあまり,大胆な見積もり計算や推論を嫌う傾向があります.真実(事実)は見えにくいことがしばしばあるのです.
図3-2 国土地理院による地形陰影図.図3とほぼ同じ地域.地理院の説明では,この図は電子地形図とも呼ばれ地形図や航空写真から機械的に作成されている.
Figure 3-2 Topographic shading map by Geospatial Information Authority of Japan. Almost the same area as Figure 3. According to the Geographical Survey Institute, this map, also called an electronic topographic map, is mechanically created from topographic maps and aerial photographs.
|
図3-3 前図と中魚沼郡誌を基にした土石流の説明.ピンク色で囲った二つの凹地のおそらく下の方に田沢入りの鍋倉という土地がかつてあった.その部分の山体が本流との合流部に崩れ落ち,三軒あった田沢という村を呑み込んで天然のダムを造った.約二旬(20日)後,このダムが決壊した.一時的にダムを造っていた土砂は土石流となって下流の原村八軒(現在の外丸か?)を押し流し,さらに信濃川本流左岸へ流れ下った.矢印の先に崩積土が低位段丘の半分ほどを埋積した様子が読み取れる.
Figure 3-3 Explanation of the debris flow based on the previous figure and the Nakauonuma County Chronicle. There used to be a place called Nabekura, which is located at the bottom of the two depressions circled in pink. The mountain in that area collapsed at the confluence with the main river, swallowing up the village of Tazawa, which had three houses, and creating a natural dam. About two tens of days later, the dam collapsed. The soil that had temporarily made up the dam became a debris flow and washed away 8 houses, the village of Hara (perhaps the current Sotomaru?), downstream, before flowing down the left bank of the main Shinano River. At the tip of the arrow, it can be seen that colluvial deposits have filled in about half of the low terrace.
|
図3-4 Google Earth による外丸地区の航空写真 .
Figure 3-4 Aerial photo of the Sotomaru area taken by Google Earth.
図3-5 Google Earth による別アングルの航空写真. 黄色の矢印の谷が「田沢入りの鍋倉」と推定される.
Figure 3-5: Aerial photograph taken from a different angle by Google Earth. The valley indicated by the yellow arrow is presumed to be "Nabekura at Tazawairi."
|
時間間隔は大きいのですが,この中魚沼地域も越後平野や飯山盆地,長野盆地と同様に,M6ーM7級の被害地震を繰り返してきた地域なのです.江戸中期・後期以降の活動がなかったのは,西方の高田平野で1666 年寛文高田地震(M6.8),1751年宝暦高田地震(M7.2),1847年弘化高田地震(M6.5)の三つの地震が繰り返し発生して,この地域の歪みが解放されていたためでしょう.また、この沢の上流部の不安定な部分はほとんど崩壊してしまったのでこれ以上の大規模崩壊は起きないでしょう.前述のように,この地形についてある地質技術者が「外丸の信濃川屈曲が河内の言うような扇状地堆積物によるものであるとすると,上流部にそれに見合うだけの山体が存在しなければならない.それが無いのだから,これは河川の側方侵食による屈曲だ」と主張していました.この人は精度の低い地形図しか見ていなかったのでしょう.図3〜図3-5からこれが扇状地であることは明らかです.しかし,彼の言う通り「それに見合うだけの山体が」現在はない(昔はあった…河内の意見)のですから,今は比較的に安全になっていると考えてよいと思います.
3 その他の地域の地震に伴う山崩れ
越後ではたびたび地震に伴う山崩れにみまわれてきました.
1670年四万石地震(M6.8 別名西蒲原地震)について『中蒲原郡誌上巻』〔新潟県中蒲原郡役所(1918)〕に次のような記事があります.
寛文度の地震 寛十庚戌年,五月五日四ツ時より大地震,西南の間より動出し,山も 抜,家も潰,その年ハ度々震り申候,依テ假小屋懸ケ,二十日も三十日迄も罷在候
後半の読み下しは次のようになります.
……西南の間よりゆりだし(あるいは動き出し),山も抜け,家もつぶれ,その年はたびた びゆり申し候.よって仮小屋をかけて,二十日も三十日もまかりありて候.
1751年高田地震(M7.2)のときの名立崩れは橘南谿の紀行文で有名です.
1828年三条地震(M6.9)でも多くの山崩れが発生したことが知られています.図4に小泉其明・蒼軒『懲震秘鑑』(小泉其明・蒼軒と三条地震のページ参照)から1828年三条地震のときの山崩れのようすを描いた絵を紹介します.
図4 1828年三条地震のときの栃尾郷の山崩れ.〔小泉其明・蒼軒『懲震秘鑑』による.秘の文字は正しくは比の下に必と書く.機種依存文字のため「秘」で代用した〕
Figure 4: Landslide in Tochio-go during the 1828 Sanjo Earthquake. [According to Koizumi Kim and Soken's ``Tyoushin Hikan''. Character "秘” is correctly written "必” on top "比” below . Because it is a model-dependent character, I substituted “秘”] |
1964年新潟地震(M7.5)では,人的被害がなかったのであまり知られていませんが,村上市北部の山間地で多くの山崩れ(斜面崩壊)が発生しました.またこの地震の3年後の「1967年羽越水害」の土石流・山津波は地震の震動で花崗岩地帯の斜面が緩んでいたことが一因と考えられています.このときは胎内市,関川村中心に100名を超える犠牲者が出ています.
|
|