このページの前半では江戸時代のこれまで一般には知られていなかった津波記録を紹介します.
後半では地名や伝説から文字記録のない古代の津波について述べます.
The first half of this page introduces tsunami records from the Edo period that were previously unknown to the general public.
In the second half, we will discuss ancient tsunamis, which have no written records, based on place names and legends.
波高二丈余り ―1833年庄内沖地震の津波―
この地震は図1のA2に相当します.天保四年(1833)十月二十六日午後3時頃に発生しました.震源域は1964年新潟地震より少し北にずれていたようです.マグニチュードは新潟地震と同程度(M7.5)と推定されています.他県も含めた被害状況の概要は宇佐美龍夫著「日本被害地震総覧」を参照してください.ここでは,胎内市久世家文書および新発田市立図書館資料をもとに,「総覧」では触れられていない新潟県荒川河口と阿賀野川河口の被害について紹介します.
・荒川河口部(村上・胎内市境)の津波被害
「家のかべややね石をおとす.大つなみ,桃崎浜湊ニ.人多く死す.川舟,福田村下タ迄逆流レ.百石斗りの小まわし船,海老江村上,胎内川上へ逆流レ」「当浜沖別けて大つなみ.桃崎の渡し端ニテ何十人水死有り」(胎内市乙,久世家「かとく録」)
福田村下タは「ふくだむら,した」と読み,福田村の河口に近い下流側の地区という意味で,海老江村上は「えびえむら,かみ」と読み,海老江村の川口の反対側の上流側の地区という意味です.なお,死者数については村上町に残る別記録に三十人,または三十〜四十人とあります(
越後の大津波伝説のページ参照).当時,荒川河口は北前船の寄港地で,東北諸藩の御用船が停泊していました.図2のA付近が海老江村の「上」,B付近が福田村の「下タ」です.ここまで大小の船が押し上げられ,数十人の死者を出した様子は,このたびの大震災の惨状と重なります.
・阿賀野川河口(松ヶ崎浜,現新潟市北区松浜)の津波被害
「七ツ半時頃より海面荒波に相成り,二丈余の高波四五度のりあげる.阿賀野川悪水吐ならびに信濃川水戸口へも押入る.領内松ヶ崎浜にては漁船流失または破船におよび,漁師どもの内,死失人も是ある旨届け出」(新発田藩記録)
これによれば,午後5時頃より,高さ6m以上の津波が四波五波にわたって,阿賀野川や信濃川の河口に押し寄せ,漁船の流失や人的被害のあったことがわかります.
図1.新潟県中・北部の江戸時代以降の被害地震(左)とその時系列(右)
Figure 1. Damaging earthquakes since the Edo period in central and northern Niigata Prefecture (left) and their chronology (right)
図2.新潟県北部,荒川河口付近の現在の略図,図中の乙大日川は旧胎内川である.当時は加治川は阿賀野川河口へ,胎内川は荒川河口へ流れていた.入り江,海岸線のようすは今日とは随分異なっていただろう.AやBは湊にあった船が溢流した波に流された位置で,川筋の遡上はさらに上流まで続いたものと推定される.1964年新潟地震,1983年日本海中部地震の際には乙大日川をAから少なくともさらに5kmほど逆流したことが知られている.
Figure 2. A current schematic diagram of the area near the mouth of the Arakawa River in northern Niigata Prefecture. The Kinotodainichi River in the map is the former Tainai River. At that time, the Kaji River flowed to the mouth of the Agano River, and the Tainai River flowed to the mouth of the Arakawa River. The coves and coastline would have looked much different than they do today. Points A and B are the positions where ships at the port were swept away by the overflowing waves, and it is assumed that the river's run upstream continued further upstream. It is known that during the 1964 Niigata Earthquake and the 1983 Chubu Japan Sea Earthquake, the Kinoto-Dainichi River flowed back at least an additional 5 km from A.
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【参考】
参考図1 新潟県中・北部の過去400年間の被害地震(M>6.7)の震源域です. 震源域の広がりの意味を理解していただくため,1964年新潟地震の場合について,その余震分布(気象庁による)を併せて示しています.1995年新潟県北部地震(M5.5)は参考として載せました. Reference Figure 1 This is the epicenter area of damaging earthquakes (M>6.7) in the central and northern parts of Niigata Prefecture over the past 400 years. (according to the Japan Meteorological Agency) are also shown. The 1995 Northern Niigata Prefecture Earthquake (M5.5) is included for reference.
参考図2 1948年-2024年の76年間に発生した中部地方の被害地震(M>6.5)の震源域です.北陸・信越地方の活動度が高く,新潟ー福井の日本海沿岸地方がM7クラス直下型地震の常襲地帯であることがわかります.これ以外にも,より古い歴史時代の被害地震のようすや活断層の調査,さらには地殻変動の解析からもこの地域が活発な変動帯であるという結論が得られています. Reference Figure 2: Epicenter area of damaging earthquakes (M>6.5) in the Chubu region that occurred over 76 years from 1948 to 2024. It can be seen that the activity level is high in the Hokuriku and Shinetsu regions, and the Sea of Japan coast region of Niigata and Fukui is a region prone to M7 class earthquakes. In addition to this, the conclusion that this region is an active deformation zone has been obtained from investigations of damaging earthquakes and active faults in older historical periods, as well as analysis of crustal deformation.
この図の地震リスト Earthquake list in this diagram
図中の(1965−67)は松代群発地震.累積マグニチュード6.4
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佐渡北端の漁村を襲った津波 ―1762年佐渡北方沖地震の津波―
この地震は,宝暦十二年(1762年)九月十五日に発生しました.マグニチュードはM7.0〜7.2と考えられています.この地震の震央は,従来の地震資料集では誤って佐渡島と本土の間の海域の越佐海峡とされていました.それは次の史料の読み違えによるものと思われます.
九月十五日未の中刻,地ふるう(震う)ことおびただし.申ノ刻まで二度に及びおおいにふるう.夜中もしばしばふるうて十七日まで昼夜やまず(中略;この間奉行所のあった相川町の被害を記す)在中にても真野村にある順徳院の御廟の周りの石垣が崩れる.鵜島村へ高波打上げ,家数貳拾六軒流出す.この次第を江戸表へ申上げる.(『佐渡年代記』による)
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誤りは鵜島村を小佐渡南東部の越佐海峡に面した東鵜島としたことにありました.その後,次に示す別史料が見つかり,実際の被災地はそこから50km北方の北鵜島のことであることがわかりました.しかし,被害は鵜島村では比較的小さく,その東隣の願村(ねがいむら)で大きかったようです.
『佐渡国略記』という史料がこの地震について記した部分は次のようになっています.(現代文に書き変えました)
右の地震にて,加茂郡願村で,家十八軒,土蔵・納屋四十箇所が同日申の刻に大浪打ちあげて流された.市左衛門の土蔵と母屋が一軒残っただけで,それ以外の村中が残らず流失した.鵜島村は海水の入った家が五軒あった.願村の男女百六十人には,九月二十七日より十二月二十七日まで百日分の扶食が支給されることになった.
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図3に大佐渡北端の二つの村の位置関係を示します.地震の震央は越佐海峡ではなく,願村の北ないし北東方向の沖合の図1のA1付近と考えられます.詳細は河内(2001)[pdfファイル]を参照してください.
図4は佐渡市願の現在(平成21年8月撮影)のようすです.大野亀,北鵜島は撮影者の後方です.
この地震のマグニチュードは1964年新潟地震よりも幾分小さく見積もられています.しかし,条件が重なると大きな津波被害を被る可能性があることをこの事例は教えています.
今のところ,越後・佐渡において,確かな文書記録の残る津波被害はこれが最古です.これ以前の時代の津波については,右上の目次から「越後の大津波伝説」あるいは「失われた陸地 ―康平図にある島々の意味―」へ進んでください.
文献
河内一男,2000,宝暦佐渡沖地震(1762年,M7.0)の震央の再検討 R ,歴史地震,16,107-112.pdfファイル(1.9Mb)
図3.新潟県佐渡市願と北鵜島.両村の間にある岬はカンゾウの群生で有名な大野亀.津波の被害は願村が鵜島村に比べて圧倒的に大きかった.そのことから,津波は図の矢印の方向からやってきて,大野亀が鵜島村を守るバリアになったと推定した.二つ亀島は陸繋島だが,約300mの砂嘴が発達するのは夏の一時期だけで通常時は海水が流れている.願村を守るバリアにはならない.この地震は佐渡北方沖ではなく北東方沖の粟島付近で発生した可能性が高い.
Figure 3. Negai and Kita-Ushima, Sado City, Niigata Prefecture. The cape between the two villages is Onogame, famous for its clumps of daylilies. The damage caused by the tsunami was overwhelmingly greater in Negai Village than in Ushima Village. From this, we deduced that the tsunami came from the direction of the arrow in the diagram, and that Onogame served as a barrier to protect Ushima Village. Futatsugamejima is a land-connected island, but the approximately 300m sand spit only develops during the summer, and seawater normally flows through it. It will not become a barrier to protect Negai village. It is highly likely that this earthquake occurred near Awashima, off the northeast coast of Sado, rather than off the northern coast of Sado.
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図4.佐渡市願.西方から撮影.高架橋は県道45号佐渡一周線.左奥は二つ亀島.大野亀の岬は撮影者の後方.
Figure 4. Negai Village ,Sado City. Photographed from the west. The viaduct is Prefectural Route 45 Sado Circuit Route. In the back left is Futatsugamejima (two turtle islands). Cape Onogame (Oonogamejima) is behind the photographer.
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関連ページ:新潟は津波の少ないところ? ―19軒中18軒が流されても死者なし(佐渡・願村)―[2012.3.5追加]
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以下は,別のページ「越後の大津波伝説」の内容を転載しました.
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越後の大津波伝説
古文書等の文字史料は江戸期より前の時代までさかのぼると急に減少します.地方オリジナルのものはほとんどありません.これには政治体制が未成熟であったことの他に,室町末期〜江戸初期の検地・刀狩でそれ以前の地方文書が回収・処分されたらしいこと,地方には個人の日記などの残っている事例が皆無に近い状態であること,などの理由が考えられます.それで,中央で書かれたわずかな史料から垣間みる程度になります.したがって地震の記録も極端に減少します.
たとえば宇佐美龍夫さんの「日本被害地震総覧(最新版)」で,江戸期260年間の記載ページ数144に対し,室町期以前の1000年間のページ数はわずか15です.しかし,記録の少ないことが地震の少ないことにつながってしまっては防災対策上不都合です.そこで,ほかの手だてはないものかと,あれこれ模索してみました.
文字史料がない時代の地殻変動の様子を知る手段の一つに私の専門でもある地質学的手法がありますが,それでは間が随分とあくことになります.多少正確さを欠くことがあっても,過去のできごとを地名や伝承などを通じて考えることもときに必要です.このページでは,まず地名に関連すること,次いで越後に伝わる大津波伝説や越後国古代図(康平の図または寛治の図)に見られる津波記事を検証します[2011.10.16].
【追記】2023年歴史地震研究会(小田原市)で発表した内容を「沖積平野下の埋没樹は越後大津波の遺物か」として新ページにまとめました.
§1.地名が語ること
・閖上―宮城県名取市(ゆりあげ)―について
この度の大震災で,津波により多くの犠牲者を出した名取川河口近くの町の名前です.この地名は震災の前から気にとめていました.伝説さえ残っていない地域で,地名が過去の自然災害を伝えることがあります.これも先人の知恵なのかもしれません.「ゆりあげ」もその一つではないかと考えていたのです.ただし,ゆりは「揺り」で,閖上は「揺り上げ」だろうと思っていました.
この土地は地震によって隆起ではなく反対に約50cm沈降しました.断層からの距離によって逆断層の上盤地塊に隆起域と沈降域の両方が存在することはあり得るのですが,それまで考えていた由来と反対なのでどうも納得がいきません.それが,最近,別のことを調べていて「閖」の字の意味が少しわかりました.新潟県村上市に残る1833年天保庄内沖地震の津波の記録中〔注〕の「閖り揚がる」という記述が目にとまったのです.この記録は何度も目を通していましたが今まではこの部分を何げなく見過ごしていました.この文章では津波が浜に打ち上げることを「閖り揚げる」と表現しています.また閖という文字がこの頃普通に使われていたことも分かります.ということは,閖上が土地の「揺り上げ」から変化したのではなく,水が「閖り揚がった」というそのままの言葉が地名に残ったということを意味しているように思えます.
〔注〕
村上市史資料編3近世二,826頁:(前略)右船滓之類之内,同浜地方上ミ浜之方江閖揚居候ニ付(後略)
読み下し:(湊から流れ出た)右船の滓の類のうち,同浜(桃崎浜)の上浜の方へゆりあげおり候につき |
桃崎浜は現在の胎内市桃崎浜です.山形県の置賜地方から発して日本海に注ぐこの川は阿賀野川以北の北越後では最大の河川で、江戸期は北前船の寄港地でした。河川改修により今はその面影がありませんが、当時は河口南方の村上市海老江と胎内市桃崎浜の両集落まで入江が広がって、大型船が入港できました。
引用の記録は、ここに停泊中の松前藩の御用船が引き波で外海に押し出され,次の寄せ波で入り江ではなく外浜に押し上げられた様子を記述したものです.地図等の詳細は越後・佐渡の津波被害のページを参照してください.
[参考]「閖」について:大漢和辞典(諸橋轍次編),巻十一,七三六頁にある記載です.
国字.ゆる,ゆり,ゆれる〔観聞志〕按,閖字未見字書,俗聞用来,而取水波激蕩之状.
〔閖上〕ユリアゲ 宮城県の地名.〔封内風土記〕淘上濱,有市店,而驛有,國俗作閖上.
観聞志の読み下し:按ずるに,閖の字は未だ字書に見ず,俗聞用来,而して水波が激蕩の状を取る.
封内風土記の読み下し:淘上濱,市店有り,而も驛有り,國俗閖上となす.
観聞志の意訳:辞書には見たことのない字だが,これまでの使われ方から,水波が陸地を激しく洗いさる状態を意味するか.
封内風土記の意訳:淘上(ゆりあげ,あるいは,よりあげ)濱は市,店,驛がある.閖上という字をあてることもある.
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・秋田県旧由利郡,山形県鶴岡市由良
「ゆり」と「ゆら」も,これまでは「揺れる」からきていると考えていました.ところで,由利郡は秋田県の南西部の海岸地方の地方名でしたし,由良は港です.これも地面の揺れではなくて,水をゆりあげるという意味の「閖り」からきているのではないでしょうか.閖上と同様に津波被害の痕跡を示している可能性があります.
・新潟市西蒲区東汰上,同西汰上は江戸期には「ゆり上げ」と呼ばれていた
現在はよりあげと呼ばれ,標記のような漢字のあてられている両集落は,江戸期までは揺り上げ,またはゆり上と表記されていました.江戸時代の文献が二つあります.一つは「新潟県史資料編」(第8巻,付表1033ページ)で,ここでは郷村帳とよばれる村々の一覧表の中にあります.もう一つは橘崑崙著の「北越奇談」巻の三,其の十一の本文中に確認できます.越後では「ゆ」が「よ」に転訛します.ゆーさりがよーされ,ゆうべがよんべです.両集落はかつては旧西蒲原郡巻町と西川町に所属し,西川をはさんで位置しています.現在の汰上は転訛したあとの当て字であることがわかります.
この「ゆりあげ」の語源が名取市の閖上と同じとすれば,いつの時かの大津波襲来時にここまで津波が遡った可能性があります.もっとも海陸の分布は今日と随分違っていたでしょうから,川を遡ったというより近くまで海が入り込んでいた時期の津波だったのかもしれません.そうすると,壊滅的な被害を受けていた可能性があります.
・鎧潟は,よろい潟←寄居潟←ゆりい潟
鎧潟は昭和30年代まで新潟市西蒲区に存在した当時県内有数の大湖沼です.よろいのような形の潟だからというもっともらしい解説がありましたが,どうもそうではなく,これも「ゆ→よ」の転訛によるもののようです.後述の康平の図中に「寄居潟」あるいは「寄ゐ潟」と記されています.
よりい,つまり「ゆりい」は閖上の閖りからきている可能性があり,当時の海陸分布はともかくとして,ここまで津波が押し寄せたことを暗示しています.
以上,地名から読み取れる過去の地震・津波の様子でした.
いやなことは早く忘れてしまいたい,と考えるのが人情です.言い伝えが残りにくい理由です.しかし,それではいけないという思いもあったはずです.紹介した地名からは,何とかして子孫に教訓を残したい,という先人の願いがそこはかとなく伝わってくるように思えます.言い伝えは残らなくとも,地名として残ったのはそういうことなのだろう,と私は考えています.その意味で,これらの地名を先人の教訓として今後も長く伝え残したいものです.
§2.越後の津波伝説
越後には古代の津波被害を伝える伝説が各地に残っています.
・紫雲寺新田由来記
「七十三代堀川院,寛治六年戊辰,大津波大地震,蒲原,岩船陸地となる」(大木金平,『郷土史概論』,1921年発行による)
大木はこの記述とこの地方で発見される埋没樹を津波と関連づけて論じています.胎内川や加治川の切り落とし(分水)工事の際に発見された埋没樹の多くが根つきで大量に発見され,同方向(根を東に)に向いているのは津波による可能性がある,というものです.
・旧黒川村夏井円福寺の伝説
「塩津潟のほとりに小さな寺があった.その堂には阿弥陀如来を本尊として奉祀されてあった.その頃の住職は,毎晩のように『近いうちの津波がある.舟を用意しておくように』と夢を見るので,不思議なことと思いながら舟を用意した.そうしたある日,風雨が激しくなり,津波が押し寄せ,本尊を用意してあった舟にうつした.その舟は流され流されて,いつか岸に打ち上がったその場所が当円福寺であった.現在でも紫雲寺の壇信徒の方の参詣がたまにある.」(黒川村誌,越後野志)
・紫雲寺町史(旧紫雲寺町,現在新発田市)
越後野史によれば,「土人の伝説に,九百年前,海水大いにあふれて,むらむらがすべて水中に没して湖となった.その時,紫雲寺の本尊の阿弥陀仏の木像が,黒川の山まで漂流してきたのを土地の人が拾った.今,その尊像は夏井村直福寺に安置されている(長さ一尺二寸).後,年を経て,水漸くかれ,昔のように陸地になったが,文禄中(1592〜95)大水のため,また,村々が水中に没して潟となった」と記されている.〔この項15.9.11追加〕
以上の二例は,前記の紫雲寺新田由来記と関連した伝説と思われます.紫雲寺町史の「直福寺」は円福寺と同じ寺と考えられます.現在の円福寺は海岸から10km以上離れている上,標高は約100mです.現在の位置からすると,ここまで津波が達したとは考えられません.しかし,寺の移転はよくあることですから,何がしかの事実に基づいている可能性はあります.
・七湊神社(旧神林村七湊の「湊神社」)由来
「はじめ岩船潟舟入場に鎮座していた.天平年中(西暦729-748)に地震・津波で損壊した.延暦年中(782-809)に当地に再建した.」(神林村誌)
七湊とは阿賀野川,加治川,姫田川,今泉川,赤川,胎内川,荒川の七つの川が合流してこの地に集まっていたことによる命名とされています.
§3.越後古代図(康平・寛治の図)についての検証
越後には,「大津波アリテ西北榎島始メ孤島打壊シ泥砂乗足島ノ東南ノ入海ニ注ケリ是ヨリ大ニ国ノ形ヲ一変化セリ」という添え書きや,その描くところの海岸地形から古代の地震や津波被害を示唆する古地図が伝わっています.平安中期の康平三年(1060)あるいは寛治三年(1089)調製とされていることから,それぞれ康平図あるいは寛治図と呼ばれています.現存するものは全て後世の模写図です.
この古代図については評価が分かれています.大正期から昭和初期には真偽をめぐって論争がありました.代表する意見を著書で見ると,大木金平(『郷土史概論』,1921),池田雨工(『越後古代史之研究』,1925)は図中にあるいくつかの矛盾は模写の過程で生じたものであり,少なくとも古代の地形を示唆しているものであることには違いないと肯定的であるのに対し,金塚友之丞(『新発田概論』,1937)は「偽図であり一顧の価値もないもの」と断じています.
榧根勇(『越後平野の1000年』,1985)は,想像力でこのような図を創作できるとは考えられないとして,「(原図が)いつの時代に描かれたものかわからないが,もしも口碑伝説の類と相違するところがあれば,これらの図はその時代に偽作として退けられ,今日まで伝わることはなかったのではあるまいか.交通不便の往時,何らの根拠もなしに想像だけでこれだけの地図を描いたとは,(地理学者としての)私にはどうしても考えられない」として,大木や池田の考えを支持しています.なお,堀健彦(新潟大学人文学部研究紀要,2010)は現存する模写図を詳細に分類し,模写の経過について分析しています.
添え書きの一例です.
○此辺の小島を天慶元戌年十月津波ありて打壊せり
○榎木島等大波にて打壊れ海となる
○大津波ありて西北の榎木島始め孤島打壊し泥沙乗足島の東南の入海に注げり.是より大いに国の形を一変せり
図1に,池田雨工『越後古代史之研究』所載の康平図を示します.図2は部分拡大図です.
図1. 康平の図.下が日本海側.(池田雨工『越後古代史之研究』による)
Figure 1. Kohei's illustration. Below is the Sea of Japan side. (According to Uko Ikeda's Echigo Ancient History Research)
図2.部分拡大図.図の中央から左下に「寄居潟」と書かれた内水面側に向いた湾状の地形がある.これは昭和三十年代まであった鎧潟(よろいがた,旧巻町・西川町・潟東村にまたがり県内一二を争う広さであった)という湖沼を指しているものと考えられる.またその右上には「与田」という地名がみえる.これは現在の「与板」と推定される.一部の史学者がいうように,この図が後世の人の偽作であるならば,なぜこのような古地名の「創作」までする必要があったのだろうか.他の史料にも伝承にもなく,今日の人が知らない昔の呼び名が記載されているのだから,江戸期に模写した頃は現在発見されていない「より古い模写図」あるいは「原図」があったと考えるのが自然だ.この古地名の記載だけでも「一顧の価値がない」どころか,とても貴重な一級の史料といえる.
Figure 2. Partial enlarged view. From the center of the figure to the lower left, there is a bay-shaped topography facing the inland water surface labeled "Yoriigata". It is thought that this refers to a lake called Yoroigata (Yoroigata, which was the largest lake in the prefecture and spanned the former Maki-machi, Nishikawa-machi, and Katahigashi-mura) until the 1950s. In addition, the place name "Yoda" can be seen in the upper right corner. This is presumed to be the current "Yoita". If, as some historians say, this map is a forgery created by a later generation, why was it necessary to go so far as to "invent" such ancient place names? Since it contains an old name that is unknown to people today and is not found in other historical materials or folklore, there is an "older copy" or "original map" from when it was copied in the Edo period that has not been discovered today. It is natural to think that there was. The mere mention of this ancient place name is not only "not worth looking at" , but it can be said to be an extremely valuable, first-class historical document.
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この項の関連ページ
失われた陸地 ―康平図にある島々の意味―
[12.8.1追加]
§4.康平図と Lost Sand Dune
鴨井幸彦・河内一男(1988,『新潟県におけるLost sand dune』,第四紀学会講演要旨)は2000年前(±数100年)の含埋没樹腐植層が村上市瀬波温泉海岸,胎内川河口,新潟東港に分布する(図3)ことを見いだし,当時の汀線が今より西側にあったことを指摘しました.現在の海岸に内水面の堆積層があるのですから,そのときの汀線はもっと沖合になければならないという考えです.海岸線は一様に西進したのではなく,行きつ戻りつがあったということです.図4に瀬波温泉海岸の腐植層の産状を示します.
このことは,康平・寛治よりさらに前の時代に,沖合に陸地が伸びていた時期のあったことを示唆しています.その後の海進でかつての陸地のうちの高地が取り残されて島状になったり,現在の新潟市付近が半島状に日本海に突き出したような形になることは十分に考えられます.つまり康平図そのものの形状はともかく,少なくともそれを暗示させるような地形は成立しうるということです.
地質学上,氷河時代の古地理図は,現在の標高,海底地形を基準に,知られている海面低下量を引いて復元することが通例です.ところが,現在新潟市付近では最大年あたり1cm程度の垂直変動が見られます.数万年の時間があれば数百mの垂直変動はあり得るのです.地質学の「これまでの常識」はときに忘れた方が良いようです.
最終氷期(一番最後の氷期.今から一万年前に終了)には佐渡島が本土とつながっていた可能性はありますし,その後の縄文海進で陸地が浸食されても,取り残された島が粟島以外にいくつかあってもおかしいことではありません.津波で打ち崩されたという記述を含めて,古代の地形を暗示する康平・寛治図はとても興味深い内容を含んでいるのです.
図3. 新潟県における Lost sand dune
Figure 3. Lost sand dune in Niigata prefecture
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図4. 村上市瀬波温泉海岸の含埋没樹腐植層.汀線から20m,海面から1〜2mの高さで700m以上連続.樹木のC14年代は1850±85y.B.P. 1982年,波浪侵食により砂丘の下から忽然と露出した.その後,再び砂丘砂に覆われて現在は観察できない.
Figure 4. Buried tree decay layer on Senami Onsen coast, Murakami City. Continuously extending over 700m at a height of 20m from the shoreline and 1-2m above sea level. The C14 age of the tree is 1850±85y. B.P. In 1982, it was suddenly exposed from beneath the dune due to wave erosion. After that, it was once again covered with dune sand and is no longer observable.
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[参考]康平図等に対する最近の否定的意見について
最近,康平図・寛治図について「19世紀につくられたものであり,それより古いものではない」という意見が出されています.私は歴史が専門ではないのでこのことについて(史料の真贋について)議論をする立場にありません.しかしこの表現は不適切で明らかに事実に反しています.以下に論点を整理し,愚考,管見を述べます.
○ 「 」内の表現は前提が抜けています.『模写図としては』それより古いものはない,というのであれば間違った表現ではありません.しかし聞く側はそうは受け取りません.19世紀に偽造されたものであったか,と受け取ります.
○ そもそも,これまで見いだされている寛治図,康平図は,ほとんどの場合それが模写したものであると明記されています.そうでない場合も添え書きから模写したものとわかるような体裁になっています.人が偽書をつくるときにわざわざ「模写したものだ」と表現するような回りくどい方法をとるものでしょうか.
○ くだんの否定的意見は制作時期を19世紀としているので,おそらく新発田市立図書館所蔵の寛治図をもとにしていると考えられます.ところが当の寛治図は新発田藩士「中西臨」,「武清」がそれぞれ安政三年十一月,万延元年九月に模写したもので,その旨を図に記載しています(図5,6).模写したことを明示しているのですから偽作ではありません.なお元の図(これも原図ではない)は文政十年に書かれたとされています(図7,8).文政十年の図,またその図のもとになった図(元図の元図)は,私の知る限り未発見です.文政十年の図の作者が,元図がないのにこの図を創作した(つまり偽作した)と断定する証拠はありません.そもそも,一私人ならともかく,藩の役人が偽作に関わるとは考えられません.
○突拍子もない例ですが,平安中期に書かれた源氏物語や枕草子の自筆原稿が一片でも現存しているでしょうか.あれだけ人々に知られ,しかも大量に書かれたものでも原稿は後世に伝わらなかったのです.
○ 原図とされるものが見つかっていませんので,本物とか偽物とかの議論にはあまり意味がありません.この古図の価値を貶めようとする否定派にとっては,立証困難な状態が依然として続いています.
○ 筆者は,地形変化・古地名・津波に関する記載にはとても興味をもっています.百歩ゆずって後世の創作であるにしても,なんらかの言い伝え等の材料があったのではないかと考えています.
○ なお,別ページ失われた陸地 ―康平図にある島々の意味―で,地学的に見てこの古代図のような地形があり得るのか,あり得るとすればどんな地殻変動が想定されるのか,を検証してみました.
図5.「安政三丙辰十一月新城藩中西臨冩」.新城藩は新発田藩のこと.左下は寄贈者の付箋.(新発田市立図書館所蔵.以下同じ)
図6. 「岡方組金渕村柄澤喜蔵所持ノ分ヲ借リ武清萬延元年九月冩」.金渕村は現在阿賀野市金渕甲または金渕乙.
図7.絵図冒頭の説明文
図8.絵図冒頭の説明文
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