観測機器ではなく人間の感覚や動物の異常行動によって感知される地震の前兆は,宏観異常現象と呼ばれています。その中には現代科学では説明が困難なものが多く含まれています。宏観とは,現代科学の範囲を超えた広い視野で観測するというような意味でしょうか。
ハイテク機器が日常生活の至る所で使用されている現代で,こともあろうに人間の感覚を持ち出すこともあるまいと思われるかもしれません。しかし,この宏観異常現象は日本や中国のみならず世界中から無視することができないほど数多く報告されています。宏観異常について詳しく知りたい人は,武者金吉著の『地震なまず』,ヘルムート・トリブッチ著の『動物は地震を予知する』や,力武常次さん,弘原海清さんなどの方々の著書や論文を参照してください。ここでは,宏観異常現象のうち,とくに鳴動(地鳴り)について述べます。
このページの目次
§1 地震鳴動・地鳴りの種類
§2 橘崑崙著『北越奇談』に見る鳴動
§3 東京大学地震研究所が調査した鳴動
§4 地区理科センター有志が観測した鳴動 ---予知された地震---
§1 地震鳴動・地鳴りの種類
(1)風のような音
鳴動といってもいろいろなタイプがあります。必ずしも前兆というわけでなく,地震と同時とか,その後の地震のないときに聞こえたという例もありま す。よく知られているのは,地震の直前に聞こえるゴー(あるいはザー)という風のような音です。筆者は1964年新潟地震の比較的大きな余震が起きるたびに直前に響くこの音を聞いています(本震のときは揺れている最中のジェット機の爆音のような音があまりにもすさまじかったためか,直前に聞こえたかどうか記憶にない)。この音は実際に聞いたものでないとわからない,何とも例えようのない不気味な響きを持っています。地震の直前なので,初期微動(P波)が地面や建物を震動させる音を聞いているのだろうと解釈する人がいます。確かに,音波の伝播速度は地震波の10分の1以下です。しかし,実際はこの鳴動の後に初期微動がきました。初期微動はゴーではなくガタガタです。そもそも10ヘルツ程度の震動があの風のような音になるとは思えません。
(2)耳の奥に響く音
筆者は1995年新潟県北部地震で(大きめの余震が起きたとき震源の近くの野外にいて)揺れの直前に,大きな岩と岩がぶつかったときのような耳の奥に響く音を二回体験しました。これはそばにいた人が全員聞こえたわけではなかったのですが,やはり聞こえたというある人は「音を言葉では言えないけど,耳の奥に響く何だかいやーな音だったですね」と語っていました。
(3)地底から聞こえる音
新潟県北部地震の震源域に近い旧豊栄市(現新潟市)南部の前新田というところにお住いのあるお宅では,4月1日の本震と翌2日午前の余震のときの二回,床下から砂混じりの水が大量に吹き上げました。いわゆる噴砂現象(実際は噴水現象で砂は二次的なもの)です。このため,床をはいで床下の点検をはじめました。2日のお昼頃だったそうですが,床の束柱の土台を修理していると,突然ドドーン,ド・ド・ドーンという連続的な爆発音のような鳴動が数分に渡って聞こえたということです。
ここまでの例は,地震とほぼ同時か地震の後に聞こえたという鳴動です。もちろん,これだけでは予知の話にはつながりませんが,これとよく似た鳴動音が別の地震の記録に前兆現象として報告されています。1828年三条地震の3時間ほど前に「ゴォー,ゴォー(原文ではゴー引,ゴー引)という風音」が観測されています.これは直前予知の判断材料になるかもしれません。また,(3)の旧豊栄市(現新潟市)前新田での鳴動は,安政江戸地震の前にも似た話があります。安政江戸地震では,掘り抜き井戸に入っていた職人が地底から不気味な音がするので仕事をやめて帰ってしまったという話が残っています。ある種の鳴動は地震のプレスリップ(先行すべり)だけではなく,震源断層の主破壊そのものでも,あるいは本震後の余効変動(地震のあとの小刻みな地殻変動)でも聞こえるのでしょうか。
〔以下の項、2015年10月13日追加〕
上述の1828年三条地震の3時間前に聞こえたという「ゴォー,ゴォー(原文ではゴー引,ゴー引)という風音」と、とてもよく似た証言が1995年1月17日兵庫県南部地震に関連してあります。この地震は午前5時46分に発生します。証言を掲載した弘原海清編著『前兆証言1519!』から転載します。
(引用開始)証言2の59 (静岡市・主婦)17日午前4時半ころ、ゴォーゴォーという海鳴りのような大きな音が聞こえて眠ることができませんでした。音の方向は南西からで、30分以上続きました。不安になり起きて海の様子を見ましたが、風もなく海も静かでした。(引用終わり) |
三条地震の際の証言の詳細を以下に示します。なお、これは小泉蒼軒(あるいはその父の其明)という新発田藩領中之島組今町の村役人が加茂組という領地から新発田藩へ報告した文書を藩から借りて写しとったもので「去子十一月十二日地震変事一件書上帳 加茂組」の中の「去子十一月十二日地震の次第」と題をうった一文の中にあります。誤りもあるかもしれませんが筆者(河内)の読み下し文で示します。報告書は地震の翌年に書かれました。
(引用開始)一つ 去る子年、霜月の地震、十一日卯の刻日の出前、東南の間、雲の色は朱の如くにござ候ところ、巳の刻頃より雨が降り風が吹きそうらえども、信濃川の通船などは差し支え候ほどの義はござなく候。然るところ、十二日の寅の下刻頃、ゴォー,ゴォーと大風の音いぶかしく、鶏鳴が頻発し候あいだ、外へ出て見そうらえども、見分かり申さず、明け渡りになおまた、まかり出て見候ところ、午より酉まで(の方角)雲が墨のごとくにて、雲切れもこれなく候ゆえ、放れて大風の様子もござなく候につき、朝飯を喰い、しばらく後に書物にとりかかり候ところ、大地震にて、家内残らず走り出て、まことに世も滅し候やと、家内のもの怪我などつかまつらぬ様、それのみ心配つかまつりおり候。(引用終わり) |
二つの証言には、地震の数時間前(三条地震では2〜3時間前、兵庫県南部地震では約1時間前)に大風のようなゴォー,ゴォーという音が聞こえ、外へ出て見たけれど、風は全く吹いていなかった、という共通点があるのです。
(4)大砲のような音
新潟県北部地震の2ヶ月前に筆者が聞いた鳴動は,大砲の音のような腹に響くドーンというタイプのものでした[このことについては§4で詳述します]。同種の鳴動が他の被害地震で記録されています。これは力武常次さんの『日本の危険地帯』(新潮選書)に詳しいので引用(一部改変)させていただきます。
「前年より間断なく不気味な鳴動があった」
「数日前から大音がゴーゴーと鳴った」
「数日前から西の方の乱雲の中にドロドロと不気味な音がひっきりなしに鳴り響き,沖の方では海鉄砲と呼ぶ海底地震が轟き続けた」
(以上は1854年安政東海地震・南海地震)
「8月半ばころ,連夜『ドドーン』という陰にこもった響きが,15分置きくらいに海の方面から聞こえてきた」
「十日ほど前,海で大砲を打っているのかと思うほど,ドドーン,ドドーンという音がした」
(以上は1923年関東地震)
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また,宇佐美龍夫さんは『大地震』〔宇佐美(1978)〕という著書で菅江真澄の『遊覧記』の次の部分を引用しています。
「(地震の前日)空のうちくもりて,こころならず。四方はれいの鬼節の鳴るてふことに,仄か(ほのか)に鳴りとよめきぬればいよいよ大濤の寄り来ん」(1810年男鹿半島地震)
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ここでいう鬼の節とはどんなものかわかりませんが,鬼太鼓というのがあるのでドーンという大太鼓のような音なのでしょう。それが以前からときおり聞こえていたがこの日は連続的に鳴るようになった(鳴りどよめきぬれば)ので,いよいよ大波(大事件)が近づいたような気配だ…というように解釈されます。
以上の単発型のドーンという鳴動が前震に伴うものであるとすれば,前震であることの判定がしやすいので,その震源分布を調べることによって来るべき本震(主破壊)の震源域の広がり=規模も推定することができます。
文 献
力武常次,1988,日本の危険地帯 ―地震と津波―,新潮社,p.91-92.
宇佐美龍夫,1978,大地震,そしえて,p.121.
§2 橘崑崙著『北越奇談』に見る鳴動
橘崑崙は『北越奇談』の巻之二で,「古の七奇」と題し,燃土・燃水・白兎・海鳴・胴鳴・火井・無縫塔について紹介しています.古というのは執筆した文化七年(1810年)時点でいう古(いにしえ)で,崑崙はこのあと「新撰七奇」として,石鏃・鎌鼬・火井・燃土・燃ル水・胴鳴・無縫塔をあげています.このうち,古・新撰のいずれにも挙げられている胴鳴が当ページに関係しそうな内容なので紹介します.胴鳴は,ほらなり,はらなり,どうめいなど様々な読み方があります.
其の五 胴鳴は秋晴の日,風雨ならんとするとき必ず是をきく.たとえば雲中より雷の轟き落つるごとく,雪の高山よりなだれ落つるがごとき声ありていづくとも定めがたし.頸城郡には黒姫嶽といへ,蒲原古志の辺には蘇門山淡ケ嶽ともいふ.又岩船郡には村上外道山ともいへり.其の響きさらに遠近なし.俗の諺に,むかし奥州阿部の族徒黒鳥兵衛といへる者あり.八幡太郎義家のために討たれ,その頭と胴と両断して埋むと.今,蒲原郡鎧潟の辺,黒鳥村八幡の神社あり.其の下時々震動してこの音をなす.しかるにその胴その頭と合せんことを欲してこの鳴動をなせりといへ伝ふ.一笑すべし今はこの奇まれに聞くことなり.ただし黒鳥の村二三里の間は今なをこの動鳴ありて,その方角まがふべくもあらず,黒鳥八幡の社地なりといへり.また黒鳥村の人は前々より更にこの鳴動を聞くことなし.他に出るときはすなわち聞く.これまた一奇なり.〔後略.野島出版・平成2年(5版),より引用.一部送りがな等を改変した〕
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崑崙は「一笑すべし」といいながらもこの項について随分と丁寧に解説しています.古の七奇のうち其の七の「火井」に次いで多くの字数を費やしています.筆者としてもこれらの鳴動について,次のように肯定的に解釈しています.
黒姫嶽(黒姫山:柏崎市南西部)は,次の項「(6)東京大学地震研究所が調査した鳴動」で取り上げている柏崎市小清水の近くです.蘇門山淡ケ嶽(守門山と粟ケ岳)の奥の福島県境に御神楽岳という山があります.神楽は太鼓で舞います.山頂の方から時々太鼓の声(昔は音を声と表現していたようです)が聞こえてくる不思議な山だったのでしょうか.村上の外道山(下渡山)も声の聞こえる山だったようです.以上の山の位置を図1に示します.ここではふれられていませんが,苗場山系の神楽峰も調べれば鳴動に関連した言い伝えなどがあるかもしれません.これらの地方は小規模地震に関連した地震鳴動の常襲地帯だったのでしょう.
黒鳥村は「鎧潟の辺」と表現されています(注).ここは三条地震の一つ前の地震で説明している,1670年(寛文十年)四万石地震(西蒲原地震)の震源域に相当します.その地震か,あるいは更に前の地震に関係した地震鳴動が,人々の恐怖心として(伝説の黒鳥兵衛の乱も同じか)残ったのではないでしょうか.「他に出るときはすなわち聞く」というのも,1995年新潟県北部地震のときの前震の鳴動と同じです.周辺の新発田市や水原町(現阿賀野市)ではドーンという鳴動が観測されていましたが,震源に近い笹神村(現阿賀野市)上高田地区や豊栄市(現新潟市)前新田地区では,鳴動は観測されませんでした.
図1 黒姫嶽,蘇門山,淡ケ嶽,外道山の位置.
(注)鎧潟は越後の大津波伝説で地震津波に関係する古地名として取り上げています.ゆりい潟がよりい潟,さらによろい潟に転訛し後世になって鎧の字があてられたと考えています.
§3 東京大学地震研究所が調査した鳴動
新潟県の北部地方において,大砲のような鳴動音が新潟地震の前(何年前か確認できない)に観測されたという話があります。これは前述の地震直前のサーとかゴーという地鳴りとはまた違うタイプの鳴動です。ところで同じ頃,新潟地震の震源域からは南へ百キロメートルほど離れた新潟県柏崎市小清水という山村で原因不明の鳴動が観測されていました。新潟県知事から調査を委託された地震研究所は,1964年3月〜9月に萩原尊禮教授以下7名の所員を派遣し,聞き取り調査や微小地震活動の観測を行なっています。
地震研究所が新潟県に提出した報告書によると,最初1962年7月1日の夕刻,突然大きな爆発音と同時に強い上下動を感じました。同日の夜に入って二度同様な爆発音と上下動を感じ,住民は地滑りの前兆かと大いに恐れたようです。その後は一旦おさまりましたが,約1年半を経過した1964年2月に再び発生しました。そのときの発生回数は表1の通りです。地震研究所が地震計を設置してからはまた活動がおさまりましたが,その間の6月16日に新潟地震が発生しました。問題の音響を伴う振動は1964年8月27日に二回あり地震計に記録されています。その結果,この音響は小清水集落の地下10km程度に発生した地震に伴う地鳴りであり,地滑りとは関係がないものと解釈されました。以上がことの顛末です。
問題は新潟地震の2年前から始まって,地震発生の3ヶ月ほど前の2〜3月にまたあり,地震前後に静かになっているという点です。実はこれは,1995年新潟県北部地震の前年にあった新潟県長岡市小国の群発地震(時節参照)とほとんど同じ発生パターンで,この小清水という山村は小国とは尾根一つ隔てた隣の谷に位置しているのです。
この地域は北方で発生する地震に先行して何らかのシグナルを出すいわゆる「地震のつぼ」にあたる地域なのでしょうか。鳴動も地震活動の一種であることはこの例からも示されましたが,鳴動=微小地震活動を「地震のつぼ」において細大漏らさず観察し,地元からの鳴動の情報などに注意していれば,地震の中期・短期予測の有効な判断材料が得られるかもしれません。
表1 柏崎市小清水で観測された鳴動の日別回数〔東京大学地震研究所(1964)を一部改変〕
文 献
東京大学地震研究所,1964,柏崎市小清水地区爆発音響原因探求のための調査報告書(手書き).
§4 地区理科センター有志が観測した鳴動 ---予知された地震---
1995年4月1日に新潟県旧笹神村,旧豊浦町,旧豊栄市一帯を襲った地震(1995年新潟県北部地震,M5.5)には,その数ヶ月前から明瞭な予兆があり,筆者を含めた新潟県地区理科教育センター研究協議会(略して地区理科センターあるいは地区理セン.事務局は県立教育センター科学教育課,いずれも当時)に所属するメンバーによって観測されていました.
〔なお,この項は1995年度,1997年度新潟県地学教育研究会誌および新潟県高等学校教育研究会理科部会発行「新潟の地震」に投稿した原稿に加筆して再掲したものです〕
1 神戸の地震ではない
1995年4月1日,夜7時のNHKニュースは,倒壊した家屋の映像から始まり,そしてアナウンサーの「これは神戸の映像ではありません」という説明が続きました.1995年新潟県北部地震(M5.5)です.この年の1月17日に発生した兵庫県南部地震は,その被害の大きさから,2月,3月と時間が過ぎても連日のように報道され続けており,人々の地震災害に対する関心の高さを示していました.そこへこの地震が発生したのでした.
この地震には本震の数ヶ月前から特徴的な音響を伴う前震(本震に先立つ前ぶれの小地震)の活動があり,当時の地区理科センター有志が聞き取り調査や観測を行なっていました.そしてその一部を,新潟県立教育センター理科研究報告という紀要(後述.図6)に論文として発表したのです.印刷会社から冊子となった研究報告集が届いたのは3月17日でした.この紀要は,県立の教育機関が発行して県内の学校に広く頒布するものです.そのため,地震の予知と受けとめられるような直接的な表現は避けましたが,出版物の形で大地の異変を公表して一般に注意を喚起したものでした.
図1 平成7年(1995)4月1日15時頃撮影. 旧北蒲原郡豊浦町天王,新潟県文化財市島邸の被害.
Figure 1 Photographed around 3:00 PM on April 1, 1995. Damage to Ichishima House, a cultural property in Niigata Prefecture, Tenno, Toyoura Town, former Kitakanbara Gun.
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2 ハクチョウの数が少ない
1994年12月20日朝の瓢湖は前日からの雪で真っ白でした.瓢湖というのは,新潟県旧水原町(現阿賀野市)にある,ハクチョウの渡来地として有名な湖です.
「11月までに渡ってきたハクチョウはいつもにくらべて少なくはなかったのです.雪のせいでしょうか.雪が積もった日(12月19日)の翌朝,みんな一斉に南の方へ飛んでいってしまいました」
これは1995年の2月の半ば頃,地区理科センターの有志グループのメンバーが瓢湖の管理人さんに問いあわせたときの回答です.当時,グループではこの地域でときおり聞こえた鳴動音の聞き取り調査をしていました.その後まもなくして,朝日新聞のコラム(当時,一面中央にカラー写真を囲む形で毎日掲載されていたシリーズもの)で次のような記事が掲載されました.
5672羽.最上川河口,白鳥楽天地
山形県酒田市の最上川河口にある野鳥観測地域「スワンパーク」では,ハクチョウがカモなどとエサを争って水面を埋めつくす=写真.
環境庁の個体数調査に協力した,同市白鳥を愛する会の安藤与吉事務局長(70)によると,今冬オオハクチョウやコハクチョウは,全国一斉調査期間の1月20日時点で昨年より約千羽多い5672羽で過去最高だった.一昨年は4210羽で,日本一.昨年は新潟県水原町の瓢湖に次ぐ数だったが,今冬,瓢湖は昨年より約2500羽少ない,3336羽.環境庁は現在集計中だが,スワンパークが日本一の飛来地に返り咲くのはまず間違いない.30年近く観察を続けている安藤さんは「エサが豊富なうえに河口の中州で安全に越冬できるからでしょう」という.
間もなく北帰行が始まる.
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これによると,この年の瓢湖ではハクチョウの数が前年の半分くらいに減ったようです.この記事が載るまでこのコラムでは連日神戸の地震に関連した内容が続いていました.久しぶりに出た地震以外の記事でした.
そこで,いつ頃からハクチョウの数に変化があったのかを瓢湖の管理人さんへ問い合わせることにしました.私たちグループの行っていた調査は地震に伴うらしい鳴動の調査でした.問い合わせの際にはそれは一切触れないで,ただいつ頃減ったのかだけを訊ねたのです.
ところで,1994年12月19日14時19分に,この地域の深さ約10kmでマグニチュードM4.2の地震が発生していました.これは瓢湖の管理人さんがいう「雪の降った日」に一致しています.たぶん,ハクチョウは地震動そのものか,あるいはそれに関連した何かの現象におびえて飛び去ったのだろうと思われました.
「南へ」飛び去ったという管理人さんの言葉を裏付ける情報も得られました.聞き取り調査で,瓢湖から南西へ約40km離れた新潟県三条市周辺の田んぼで,例年になく多くのハクチョウが見られたという回答が得られたのです.瓢湖を去ったハクチョウの多くは越後平野南方へ移動したのでしょうか.また,向きを北へ転じて最上川河口のスワンパークを目指した群れもあったかもしれません.
3 鳴動の聞き取り調査
一連の鳴動(前震)の中で,私がはっきりそれと意識したのは,2月4日の朝のものが最初でした.それは,地震かどうかは判断に迷うような感じで,文字通り鳴動とでも呼ぶべき特異な現象でした.腹に響くドーンという衝撃が一回,あとは何も揺れません.なにか,衝撃波を受けたような感じでした.重いものが地面に落下したときのような感じでもあります.音が聞こえたような気もしました.人に聞くと前日の夜にも同じ鳴動があったといいます.皆さん一様にその衝撃の不気味さを感じていました.そこで,鳴動の発信場所であるらしい地区の理科センター所員数人でグループを組んで調査観測をはじめることになったわけです.
鳴動があっても気づかれなければそれまでですし,昼間職場に行っているときは観測困難です.それでこの地域に住む何人かのメンバーの知人に,ファックス送信用紙を配布して,地震であれば揺れの程度を,そしてドーンという鳴動がわかったかどうかを返信してくれるように依頼しました(図2).
図2 鳴動の聞き取り調査で使用した報告用紙
聞き取り調査は地元の小中高校の生徒さんにもお願いしました.以前に何回か,新潟県内で起こった地震の直後に,県内の小中高校生を対象に震度などについてのアンケート調査を行ったことがありました.手法はそれと変わらないのですが,今度のものはまだ起きていないのに「事前」に配っておくのです.2月上旬の鳴動を伴う地震は全ての人が気づいていたわけではありません.むしろ,知らない人が多かったのです.だから,受け取りようによっては来るべき地震を予知しているようなものでした.無用な予知騒ぎは本意ではありません.それで,ファックス送信用紙の表題は「新潟県北東部の群発地震について」として,カムフラージュをかけたものです.
2月4日の「ドーン」から数日は何もなく過ぎましたが,2月9日になって一回,11日には二回報告が届きました.聞き取り調査によれば,調査開始以前の1月17日の深夜にもあったといいます.神戸で地震があった日の夜だったのでおぼえていたのだそうです.
聞き取りは,地震の揺れの大きさがどうだったかという点もさることながら,揺れは感じないがドーンという単発の鳴動が聞こえたかどうかという点に主眼を置きました.
鳴動の報告は,その後発生する本震の震央付近よりも,周辺地域の旧水原町,新発田市,旧豊栄市北部のほうから多く上がってきました.これは後でわかったことですが,鳴動が聞こえたところでは揺れが感じられないでドーンという鳴動だけだったのに対し,震央付近では反対にドーンは聞こえず,通常の地震のように揺れたらしいのです.ドーンは一種のドーナッツ現象だったのかもしれません.また,4月1日の本震以後の余震はガタガタユサユサという通常の地震の揺れで,旧水原町でも,新発田市でも,単発型のドーンという鳴動の観測報告はありませんでした.このことは,このタイプの鳴動を伴う地震が通常の小地震とは区別でき,この地域における被害地震の予知の有力な判断材料になることを意味しています.
4 鳴動は新潟地震の前にもあった
過去に同じようなことがなかったかどうかも調べました.すると1962年〜1963年頃,新潟県旧中条町(現胎内市,新発田市より約20km北方)で,原因不明の(やはりドーンという感じの)大音響が観測されていたことが分かりました.地元の古老によればそれ以前にも何度も聞いていたそうです.しかし彼はその音を海岸に打ち上げられた機雷の処理作業だと考えていました.終戦後何度か海岸で漂着機雷の爆破処理作業があったというのです.推測の域は出ませんが,1964年新潟地震の震源域に近い新潟県北部地方では戦後から1964年頃の間に,このような大音響を響かせる前兆があった可能性があります.そして重要なのは,新潟地震の後ではこのような大音響は観測されていないということです.ただし,今回の鳴動まで.
グループでは,この昔の大音響と今回のドーンという単発性の鳴動が同じ性質のものではなかろうかと考えました.つまり,昔の大音響は1964年新潟地震の前震に伴う鳴動音だったのではないか,そして今回のものは近い将来の地震の前兆の可能性があるのでは,と考えたのです.
なお,後で知ったことですが,新潟地震前の1964年の早い時期,遠く離れた柏崎市でも原因不明の鳴動が報告されていました.そして,同じように地震のあとでは観測されなくなりました.こちらの方は回数が多く規模も大きかったため社会問題になったようです.これについては,前の節の「§3東京大学地震研究所が調査した鳴動」の項を参照してください.
5 地震データの閲覧と鳴動調査の照合
新潟地方気象台を訪ねて,はじめて地震データを閲覧したのは2月13日のことです.宵の口の気象台で,観測課のN氏が親切かつ誠実に応対してくれました.理科センターの地震教材に使うという目的で閲覧を許可していただきました.多少無理な部分もあったかもしれません.ともあれ,気象庁暫定と呼ばれる震源要素(緯度経度,深さ,規模,時刻)とグループの聞き取り結果との照合をすることができました.
これにより,鳴動が観測された時刻に旧豊栄市(現新潟市)・新発田市・旧水原町(現阿賀野市)を結ぶ地域内に,小規模な地震が発生していたことが確認できました.M4前後のやや大きめの地震が前年(1994年)の12月19日とこの後の3月23日にありましたが,このときは鳴動ではなく,普通の地震の揺れとして感じられました.また,M2.5以下の場合は鳴動の報告例はありませんでした.鳴動はマグニチュードM2.5〜3.0程度の地震に伴って観測されることも分かりました.
図3 1995年2月〜3月の間に使用した「前震」記入用の20万分の1地勢図.黒丸の大きさは地震の規模を表している. |
その後も数日おきに気象台に出かけて記録を調べては,20万分の1地勢図に逐次手作業で追加記入していきました(図3).まさに現在進行形の作業でした.今でこそ,インターネットで大学や研究機関の地震データや震源マップが簡単に入手できますが,当時はそのような手段はなかったのです.
膨大なデータを扱う場合はともかく,ごく限られた地域でせいぜい数日に一回起きる程度の地震でしたから,このような手作業による地図への記入の方がかえって良かったのかもしれません.というのは,20万分の1くらいの縮尺の地図が群発性の震源分布を見るのにちょうど良かったですし,一つひとつ記入して行くという手作業を通して,震源の変化が手に取るようにわかったからです.また,単純作業を繰り返していると,作業しながらもいろいろなことを考えて,ときに良いアイデアが湧いてくるようです.
図4 に地震(鳴動)発生の状況を日別の時系列グラフ(横軸に時間,縦軸に回数)で示します.これも地震が起こる前の2月中旬ころから作成しはじめ,聞き取り調査や地震データが入るたびに書き加えていったものです.
図4 新潟県北部での「前震」の日別グラフ.○印は聞き取りで鳴動が確認された前震.この図は1995年2月に新潟県地学教育研究会で口頭発表した際のOHP原図である.その後,別の講演のため3月以降のデータを追加している.この当時はまだパソコン用のプロジェクターは普及していなかった.
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6 鳴動は前震か
一連の地震が群発性の活動なのか,それとも前震なのかは普通見分けるのが難しいとされています.にもかかわらず,研究グループが前震と確信したのは以下の根拠によります.
(1)前述のように,特徴的な鳴動を伴うものであった
(2)それが1964年新潟地震の前にも経験されていた
(3)M3.0程度の粒のそろった小地震を繰り返していた
(4)この地域には過去に群発地震の発生例がない
(5)地震発生地域の近傍に活断層(月岡断層)がある
(6)瓢湖のハクチョウの数が激減していた
これらの一つひとつを見るだけならば,短絡的だとご批判を受けるでしょう.しかし,グループは総合的に判断しました.そもそも,あの不気味な腹の奥に響くような鳴動を聞いただけでも,普通の人はただごとではないと思うにちがいありません.しかもそれが以前に経験した大地震の前兆的鳴動や他地域での過去の似たような例と結びつけば,行き着く考えは誰でも同じになるだろうと思います.つまり,実際に前兆を体験したかどうかがこの場合は極めて重要なのです.なお,(3)の粒のそろった小地震の続発という現象は地学的にも重要と思われます.
さて,前震という判断にはたったものの,発生時期を明確に予測することはできませんでした.それができるにはデータが不足していました.1896年陸羽地震と1930年北伊豆地震は前触れの地震があったことで有名で,前者では一週間前から,後者では20日前から前震の活動がありました.しかし,この地域はとうにこの期間が過ぎていました.有感の前震に限っても,前年の12月中旬に数回,1月に1回,2月上旬と中旬に数回ずつ,3月中旬に数回と間欠的に消長を繰り返していました.すぐにでも起きそうな気もしましたが,場合によっては,半年くらいの期間まで考えなければならないのか,と漠然と考えていたのです.水準測量や基線測量などの地殻変動の調査を繰り返し実施すれば直前の前兆をつかめるかも知れないとも考えました.しかし,準備に手間取り,実際に水準測量を開始したのは地震後の4月中旬になってからでした.
7 微小地震活動の移動・連動
この新潟県北部地域の地震活動と連動したらしい別の地域の地震活動がありました.これは,1995年の2月中旬頃,気象庁暫定の地震データを閲覧しているうちに気がついたものです.
図5 旧新井市・飯山市,旧高柳町,旧小国町および旧水原町・笹神村の4地域での微小地震の月別の発生状況.連動(ほぼ同時期に活動)や移動(一方の地域の終息→他方の地域の活動)が読みとれる.この図も図4と同様のOHP原図.
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図5 は,群発地震の移動や連動が見られた,新潟県旧新井市・長野県飯山市地域,新潟県旧高柳町地域,新潟県旧小国町地域と新潟県北部地震の震央付近の旧笹神村・水原町地域の4地域について,1994年1月から1995年3月末までの月別の地震回数をそれぞれ示したものです.
この三地域の微小地震活動を概観すると次のようになります.
(1)3月,飯山でバースト的に活動が起こった後いったん収束した
(2)10月,小国で活動が始まると,飯山でも再活動した.このときほぼ同時に,次の候補地となる水原(笹神)でも活動した
(3)小国が活発に活動しているときは,飯山,水原(笹神)ともに小規模であった
(4)小国の活動が収束すると,水原(笹神)が活発になった
この他に,(2)の段階ではこの地域からはるか600km離れた北海道東方沖地震(M8.1)が,(4)の段階ではお隣の福島県西部の地震(M5.5),三陸はるか沖地震(M7.5)が発生しています.また95年1月17日には兵庫県南部地震(M7.2)が発生しています.
このように,信濃川はるか上流の長野県から信濃川河口に近い越後平野北部へ微小地震活動の移動(あるいは連動)がありました.また,それらの節目には太平洋沿岸日本海溝のプレート境界地震と連動したような様子が見られました.冒頭で触れた「予知論文」(3月17日印刷)は,これらの内容(原稿締切日の関係で1995年2月20日までのデータ)を中心にまとめたものでした.図6 にその論文に挿入した図を転載します.
図6 県立教育センター紀要に投稿した「予知論文」.「前震」の可能性は高いと考えていたが,混乱を避けるために前震とはせず,群発地震と表記した.
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8 簡易地震計の設置
聞き取り調査と並行して,簡易地震計で観測をはじめました.地震計といっても中学校・高等学校の教材用地震計ですから刻時装置(時刻を記録用紙に波形と同時に記録する装置)などはありません.円周24cmのドラムが4分間で一回転し,したがってペン先は秒速1mmで同じ場所を引っかいていくだけのシロモノです.倍率は7倍程度で感度は低いものです.これでは揺れが小さい鳴動は記録できません.それでも,来るべき本震は何としても波形を記録したいと思っていました.
地震計は全て機械式です.県立教育センター備品の二台と,他地区の理科教育センターから借りた一台とをあわせて三台を調達しました.この地震計一台では,一成分しか計測できません.上下動と水平二成分(東西と南北)を計測するためには一ヶ所に三台必要です.しかし,この三台を全部上下動にセットして,旧水原町(現阿賀野市),旧豊栄市(現新潟市),新発田市のメンバーの自宅に分散設置しました.一連の鳴動を伴う前震は,この三市町を囲む地域の地下10km付近に集中していました(図3).この地震計は上下動が最も感度が低いのですが,それをあえて選んだところに,来るべき本震は間違いなく真下からやってくる,というメンバーの確信を読みとっていただきたいと思います.
この地震計はスス書きで記録します.一時はススの出るろうそくが手に入らないで困りましたが,アルコールランプに灯油をつめて燃やすと大量にススが発生することがわかり,それを利用しました.ペンは同じ場所を回転するので,一日で線は太くなります.それで,毎日のように玄関先でススをかけ直したものです.
9 本震の発生
本震(M5.5)は平成7年4月1日午後12時49分に発生しました.
私は外出先から家に戻ったところで,台所に立っていました.ゴーと揺れ出したとき,子供二人をテーブルの下に潜らせながら,ああついにやってきたかと,複雑な思いにかられたことを憶えています.あとで家人に聞くと何か怒っていたようだったそうです.私なりの無念さがあったのだと思います.
この5日前の3月27日に,例の研究報告集に出した論文の別刷りを,地元の研究機関にいる知人の何人かに届けたのですが,そのうちのある大学の研究室で,相手の方は何を思ったのか,あなたは地震の予知などをして世間を騒がせたいのか,と罵りだしたことがありました.
また,少し前の3月上旬頃ですが,ラジオの科学番組に出演する機会がありました.この番組はラジオ放送なのにスタジオで実験をしてアナウンサーがそれを実況で解説するという一風変わった内容なのです.このときは,テーマは何でも良いというので,地震の液状化災害や建造物の共振現象をやりました.ところで,出演の依頼があったとき,「いま水原町(現阿賀野市)方面で変な地震活動があって現在それを調べています.番組でそれに触れたいのですが,そうなると予知騒ぎになって少し混乱するかもしれません.このことについて,上の人と相談してくれませんか」と担当のディレクター氏に申し入れていました.しかし,しばらくして返ってきた返事は「その件には触れないで」というものでした.双方ともじつに常識的な行動をとったことになるのですが,今にして考えると,はたしてそれで良かったのかという思いが強いのです.
図7 は,新発田市と旧水原町(現阿賀野市)で記録されたスス書き地震計の波形です.今となってはこの波形記録だけが,予知の証であるような気がします.玄関先で毎日のようにススまみれになっていた姿を思い出します.ともすれば「本当に予知をしていたのか」と自身で懐疑的になってくる気持に対して,すすがきの波形記録は「いや,やっぱり予知していたのだ」と語りかけてくれるような気がするのです.
図 7 メンバーの自宅で記録した1995年4月1日の「本震」の波形.新発田市大手町(左.観測者:筆者)と旧水原町中央町(右,観測者:芋川敏之氏)で記録に成功した.もう一台を旧豊栄市(観測者:森田朗氏)に設置していたが,針が振り切れて記録できなかった.なお,すすがきの記録用紙は黒地に白色の波形であるが,この図では白黒を反転させて示してある.図のスケール1secは1秒の時間を表し,紙面の長さは1sec=1mm.つまり,この地震計の記録紙用ドラムの回転速度は1mm/secである.地震計の倍率は約6倍.
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ラジオ報道によると,はじめ気象庁は震央を実際のそれより30kmも北方の新潟県沖と発表していました.新潟地方気象台はともかく,気象庁は前震を含む前兆現象は全く認識していなかったようです.地震発生直後,筆者は震央とにらんでいた旧豊浦町(現新発田市)方面へ車を走らせました(図1).
現地で会った地元新聞,新潟日報のある記者氏と交わした会話です.
記者「気象庁は新潟県沖と言っているのに,なぜここの被害が大きいの」
---「それは,本当の震源はここだからです」
記者「あなたはなぜそれを知っているのですか」
---「前から予測して調べていたからです」
記者「それを記事にして良いですか」
---「気象台の担当者のNさんに聞いてください.事情は彼が知っています」
しかしNさんは行政官でもあります.その後の記者とNさんとのやりとりは容易に想像できます.結局,この話は記事になっていません.
夕刻になって,気象庁は震源をそれまでの新潟県沖から新発田市の南方約10kmの笹神村の地下10数kmへ修正しました.
この地震による被害は,新潟県消防防災課の集計によれば,重傷者6名,軽傷者62名,全壊55戸,半壊165戸で,被害総額は93億円にのぼりました.「予知」できていた者としてなにがしかの思いはあります.それでも犠牲者が出なかったのがせめてもの救いでした.
参考文献
河内一男,1995,新潟県内の最近の地震活動とその地学的考察,新潟県立教育センター研究報告第164号,65-70.
河内一男・森田朗・芋川敏之・中川正道,1995,新潟県北部の地震の先行現象と月岡断層,第四紀学会1995年大会講演要旨集.
河内一男・中川正道・森田朗・芋川敏之,1995,1995年4月1日新潟県北部の地震の前震,日本地震学会秋季大会講演要旨集.
河内一男,1995,新潟県北部の地震の前震に伴った鳴動,月刊地球,Vol.17,No.12,774-778.
地区理科教育センター新潟県北部地震調査研究グループ,1997,地区理科教育センターが行った1995年4月1日「新潟県北部地震」の調査,新潟県地学教育研究会誌,第30号,19-34.
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