そのときどんなことが起こったのか
新潟地震の建造物被害の象徴の一つとなった昭和大橋の落橋のようすについて,橋上にいた目撃者の証言および土木学会の昭和39年新潟地震震害調査報告(1966)により検証しました.なお,目撃者の証言中の橋脚や橋桁の位置は,証言から比定できるものに限り,記号(橋脚P1〜P11,橋桁A〜K,図3 参照)で示しました.
本文の中ほどに「渡部氏の証言(前田さんの聞き書き)」を追加しました。またこれまでW氏,M氏と仮名としていたところを実名に変えました。(2022.9.4)
図1 手前(上流側)から昭和大橋、八千代橋、万代橋。信濃川河口右岸にある昭和石油のタンクが炎上している。[新潟日報社(1964)による]
Figure 1 Showa Ohashi Bridge, Yachiyo Bridge, and Bandai Bridge from the front (upstream side). A Showa Sekiyu tank on the right bank of the Shinano River mouth is on fire. [According to Niigata Nipposha (1964)]
図2 昭和大橋西取付道路(左岸側。前田氏らが進入、脱出した側)の亀裂のようす。[新潟日報社(1964)による]
Figure 2: A crack in the west approach road of Showa Ohashi Bridge (left bank side, the side from which Mr. Maeda and others entered and escaped). [According to Niigata Nipposha (1964)]
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§1 昭和大橋の落橋
大地震に際して,震源域直上でいかに凄まじい震動に見舞われるかということは,直接体験したものでないと理解しがたいところがあります。また,直接体験したとしても,時間がたち記憶が薄れるにつれて,「本当にそんな経験をしたんだっけ」と自身の経験そのものにも懐疑的になってしまうもののように見えます。
1964年新潟地震での昭和大橋の落橋は,昭和石油のタンク爆発炎上を背景に新聞に掲載された衝撃的な写真があり(図1),この地震の象徴的画像として有名です。しかし,そのとき橋の上でどんなことが起こっていたのかは意外に知られていません。筆者は,地震当時北陸建設弘済会に勤務していた人(前田忠三さん)から目撃談を詳しく聞く機会を得ました(さらにその後,説明を補足した手記をいただきました)。地震発生時,彼は知人(渡部薫氏)と二人で橋の上を自転車で通行中でした。 前田忠三さんと前田さんを通した渡部薫氏の目撃談に加えて,前田さんからご提供いただいた『昭和39年新潟地震震害調査報告』(土木学会,1966)や当時の新聞記事をあわせて参照し,そのときどんなことが起こったのかを検証します。
§2 前田忠三さんの証言
1) そのとき
仕事の関係で偶然一緒になった国鉄勤務の渡部薫氏と自転車で県民会館(西)側から下所島(東)側へ向かっていました(渡部氏とは地震後にわかれた。平成6年に30年ぶりに再会)。
図1のEのあたりに来たとき,「ギイ,ギギイ」と歯ぐきが疼くような金属製の音が聞こえ始めました。後方を振り返るとオンボロ車が来るわけでもないし,橋の下の信濃川の水面にも船は見えなかったので,「何の音だろう」と渡部薫氏と話しながら進んでいました。この間約10秒です。
そうしているうちに突然ハンドルを右にとられ,二人とも自転車にのったまま対向車線を越えて道路の反対(南)側の歩道の縁石近くに一気に運ばれました。その後の行動は今から思うと一種の帰巣本能でしょうか,二人とも申し合わせたように今度は自転車を引っ張って再び車線を横切りもとの北側(下流側)へ戻り自転車を倒して欄干に抱きつきました。この間も10秒くらいでした。
図3 昭和大橋の橋脚P1〜P11,橋桁A〜K(横から見た図:上)と落橋前の人々のいた位置(上から見た図:下)
Figure 3 Showa Bridge piers P1 to P11, bridge girders A to K (side view: top) and the positions of people before the bridge collapsed (top view: bottom)
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橋は下流側と上流側相互にグー,グーという凄い力で振動を繰り返していました。そのとき図3の橋桁Fのあたりに女性が一人,下流側の欄干にしがみついているのが見えました。この間は1分半ほどです。
揺れがおさまったので,もときた公会堂側の西詰めまで自転車を押して戻りました。振り返ると橋が落ちていました。落ちる瞬間は見ていません。この間は30秒弱です。
2) 同行の渡部氏が(平成6年に)前田さんに語ったこと
以下は前田忠三さんが渡部氏から聞いたという話の内容です。前田さんが平成11年,筆者(河内)に送っていただいた私信から原文のまま抜粋します。
**********渡部氏の証言(前田さんの聞き書き)**********
『ギ・ギギイの音を聞きながら急ぎ足でペダルを踏んでいたとき,突然,自転車とともに横すべりした感じで真横の車道の端まで10米余りも飛ばされ何が起きたのか一瞬わからん状態だった。
高欄につかまり激しいユレの中で川の下流側八千代橋方面を眺めていた。前田さんが体育館がつぶれると叫んだあとキノコ雲が見えボーンと音がした直後,自分は「川の水がないぞー」「川底が見えたぞー」と続けて叫んだ。
それは逃げる直前のホンの一瞬で「オッ,ワー」という感じで1〜2秒の出来事だった。
タライの水をユサブルと水が両側にチャポン〜と集まり真中が少なくなるのに似ており,両側に水が分かれた感じだった。水が両側にさけたと言うか,割れた,別れた感じで,下の方まで裂けた感じで下流側50mくらいまでの川底の泥が見え下流側で水柱も上がった。
それと同時に足元の目の前のジョイントが開き始めた。危ないと思った瞬間,桁が落ち始め水しぶきが上がるのを見るや否や「逃げよう」と叫び夢中で逃げ出した。
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前田さんによると,渡部氏は職場でこのことを話したといいます。すると「バカ言え目の錯覚だよ。そんなことあるわけないよ」言われ「そうかなー」と思い,「以後は誰にも話さなかった」とのことです。
3) あの女性は
そのときは無我夢中でしたが,時間がたってから橋の中央付近にいた女性がどうなったか心配になり,ラジオ局から呼びかけてもらいました。果たして一週間後に市内松浜町の女性が「自分でした」と名乗り出て,無事が確認できました。「最後までFの欄干につかまっていました。橋が落ちたとき胸まで水につかりました。欄干を伝い上がったら,橋は下所島側までつながっていたので逃げられました。歩いて松浜橋まで行ったが松浜橋も落ちていたので,上流の泰平橋をわたってやっとの思いで家に帰りました。昭和大橋の上ではただ夢中で周囲を見る余裕はありませんでした」とのことでした。
§3 土木学会報告書掲載の目撃談
以下は土木学会(1966)からの抜粋です。
1) 新潟大学講師Y氏:右岸上流約100mの川岸で目撃
大きな地震のゆれが一応おさまってから橋桁が落ち始めた。まずEが橋脚にひっかかりながら落ちるとかなり高い水しぶきが上った。次にDとFが相前後して落ち,10秒位の間隔でゆっくりとC,Bの橋桁が落ちていった。震動とは関係なく(震動が全くおさまったあとで,という意味か)落ちていったのが不思議に思えた。
2) 白山高校生徒T君他四名:左岸上流100mの川岸で目撃
川岸の震動方向は川と直角の方向であったと思う。川の水はカルメ焼きのように持ち上がった。橋が落ちたのは激しい震動が落ち着いてから。EとFがV字形になってからEが水没した。そのあとD,C,Bの順に落ちた。
3) 白山高校生徒I君:左岸上流50mの川岸で目撃
Eは水平に木の葉がゆきつもどりつするように落ちた。
4) 富士タクシー運転手Y氏
左岸から右岸へ向かって橋を渡っていて真ん中あたりにきたとき車の様子がおかしいのでパンクだろうと思い車を止め,タイヤに異常のないことを確かめたとき車輪がのっていた伸縮継ぎ手が約10cm開いているのが見えた。それと一緒に石油タンクの爆発音が二つ聞こえた。車は上下左右にはげしく揺れてうまく走れなかったがどうやら無事に逃げた。
5) 権平工作所溶接工 Y氏:昭和大橋に添加する水道管の溶接工事中。昼食休憩中。
橋軸と直角方向の衝撃を感じ砂利運搬船が橋脚にぶつかったのかと思った。次の瞬間橋がぐるぐるまわりはじめて上下にもかなりゆれた。伸縮継手が10cmぐらい上下にくい違ったりとじたりしているのを見てこの分では橋が落ちると思い右岸側に走って逃げた。橋の上には富士タクシーと福田組の小型トラックが右岸側に向かって走っていた。白山高校の前の岸から10mくらいはなれた川の中に黒い水柱が上がっているのが見えた。
6) 福田組トラック運転手S氏:トラックは左岸から橋に入ってきた。
B付近まできたとき車が左側に片寄るので故障かなと思って停った。継目が開閉しているのをみて地震だと気づきうまく走れないのを夢中で運転して右岸の方へ逃げた。F付近で先行の富士タクシーが停っているので再び停ったがまだゆれるのでタクシーを追越して取付道路へ出た。
7) 福田組トラック運転助手M氏
川の中心はサボテンの林のように高さ1mあまりの黒い水柱がふき出していた。
§4 証言をさらに
以上の話には微妙な食い違いがあります。しかし,この種の目撃談には違いのあるほうが自然であって,先入観なしに各自が語っている証でもあります。これまで経験したことがない大変な状況におかれてなお,共通の内容があることにむしろ意味を見いだすべきでしょう。橋桁Fにしがみついていた女性が「夢中で周囲を見る余裕はなかった」と言っているのが普通の感想と思われます。
そんな中で橋桁や橋脚の落ちる様子が具体的に証言されています。橋脚P5とP6について,3節-1)のY氏は別の証言(新潟日報,1964.10.4)で「横揺れしてはずれた橋ゲタに押し倒され,つぶされてしまったように見えた。だから沈下説もあるが私には倒壊したとしか考えられない」となっています。しかし,橋脚P5とP6は潜水夫による捜索でも発見できませんでした。折れただけなのであれば残骸が発見されるはずです。Y氏は橋桁Eが沈下する橋脚の頭部にぶつかる様子を見ていた可能性もあるのではないでしょうか。ここは作業仮説として沈下説をとってみます。じつはこの後で示す証言が沈下説を強く示唆するのです。
昭和大橋はP5とP6の2つの橋脚のみが「消失」しました。それ以外の橋脚は立ち残りました。後述するようにわずかに傾いたものの沈下しなかったのです。そうすると2節-3)の渡部薫氏の証言が重要になります。彼はDとEの境付近(橋脚P5の上)の欄干にしがみついていました。その下から下流側50mくらいまで水が両側に裂け,川底の泥が見えたと言っています。渡部薫氏は別の証言で「すり鉢形で真ん中の水が少なくなったという感じではない。水が両側に裂けたというか,割れた,分かれた感じでした。下の方まで裂けた感じで底が見えた」と,わざわざ「すり鉢形ではない」と念を押しています。渡部薫氏の証言を続けます。「(水が裂けた後で)下流側で水柱もあがりました。それと同時に足元のジョイント(DとEの継ぎ目)が開き始めました。危ないと思った瞬間,(Eの)桁が落ち始め水しぶきが上がるのを見てから「逃げよう」と叫び,前田さんと一緒に左岸側へ夢中で逃げだしました」。
これらの証言から,水が両側に裂けたところが橋脚P5とP6の位置に相当すると考えられるのです。
さて,この間のようすを右岸100mほど上流の川岸から例のY氏が目撃していました。「橋の上には10人ぐらいの人がいたように思う。その中に自転車を引いた人がおり,1スパンを渡り終えるといま渡ったところが落ちるというように,橋が順次落ちるより先に次のスパンに移っているのが見え,運の良い人だとそのとき思ったことを記憶している」
§5 結論
11個ある橋脚のうちP5とP6の2つだけが消失しました。残りの9つのうちP1〜P4が右岸側へ,P7が左岸側へ傾いただけで沈むことなくほぼ原形のまま残りました。このことは,橋桁Eの付近で「川の水が底の方まで両側に裂けた」という証言と整合的です。そこでここでは「沈下説」に立って目撃証言をまとめます。たてた作業仮説の要点は以下の2点です。
・橋脚P6,P5の沈み込みによってEの落下とFの左岸側の落下が引き起こされた。
・Eの落下が橋D,C,Bの右岸側落下を次々に促していった。
図4 昭和大橋の落下
Figure 4 Fall of Showa Ohashi Bridge
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落橋の様子は次のように推定されます(図4)。
1) まず,P6が沈下をはじめ,EとFで「V字形」になった。
2) その後P5も沈下をはじめたために橋桁Eの左岸側もさがり,結局Eは「木の葉がいきつもどりつ」するように落下していった。
3) このときEは沈みこむ橋脚P5とP6の上部にぶつかり一部を破壊した。と同時にDの右岸側もゆっくり落ちていった。
4) 橋桁Dの右岸側の落下によって,Dは右岸側に少し引っ張られて橋脚P4は右岸側に傾いた。P4が傾いたために支えがなくなった橋桁Cの右岸側が落下した。
5) 橋桁Cの右岸側の落下によって,Bは右岸側に少し引っ張られて橋脚P3も右岸側に傾いた。そのためBの右岸側が落下した。
§6 50年目の新しい証言 (2017.9.2追記 2020.8.7補足)
知人からの情報で,次のような新聞記事を知りました。
新潟市西蒲区の高島忠男さん(73)の証言
(新潟日報 2014.6.12 「新潟地震50年 記憶未来へ」より)
地震時右岸側下流川岸の自動車整備工場勤務。 飛び出して川岸の砂利の山に。グーッと低い音が腹に響いた。振り返ると、昭和大橋の橋脚の一つが川に潜るよう消えた。上に渡されてあった橋桁は一瞬、宙に浮いてとどまっているように見えたが、すぐに真下に落ちた。橋に目がくぎ付けになっている間に、信濃川の水がだんだん引いて小川のようになった。むき出しになった川床では魚が跳ねた。
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ここで,ポイントは2点あります。まず、橋脚の一つが川に潜るように消え、上の橋桁が一瞬宙に浮いて留まっているように見えてから真下に落ちたことです。これは本論の仮説と一致します。つまり、仮説は新たな目撃談から証明されて、事実となったわけです。次に、川の水がなくなって川底が見えたという目撃は§2、4の渡部薫氏のそれと一致します。日本一の大河の水が無くなった、という未曾有の現象の目撃者が複数現れたのです。高島さんによれば,橋脚が消えたとか川底がむき出しになったとかいう話しをすると,人は皆笑って相手にしてくれなかったといいます。前述の§2と§4の渡部薫氏の,川底が割れた話も同様の反応だったそうです。以下は前田忠三氏経由の渡部薫氏の証言です。『当日、職場に帰って話したら皆が、「ばか言え、目の錯覚だよ。そんなことあるわけないよ」と言われ「そうかなぁ」と思い、以後は誰にも話さなかった』
高島さんも、その後しばらくその話はしないようにしたそうです。渡部薫氏からは30年目,高島さんからは50年目に重い口を開いて貴重な体験を語っていただいたことになります。
高島さんの,信濃川の水がだんだん引いて小川のようになった,という現象はご本人は(新聞記事での話では)津波の引き波と考えられているようです。しかし,この場合には地震動と同時のできごとなので,激しい地盤の動きに伴う現象と考えるべきだと思います。
これとよく似た現象が,天長七年出羽国地震(830年)で記録されています。
出羽国地大震、人多傷死
〔類聚国史,日本紀略,日本後紀,大日本史,本朝地震考〕
正月二十八日出羽國驛傳奏、今月三日辰刻、大地震動、響如雷霆(中略)城辺大河曰秋田河水涸細流如溝、添川今玉川覇川未詳闌岸崩塞其水氾濫
〔類聚国史,日本後紀〕
小鹿島果「日本災異史」による
読み下し
城辺、秋田河という大河あり。水涸れ、細流溝の如し。
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秋田河とは雄物川のことで,水が涸れて細流になってまるで溝のようになった、と驚いています。実はこの記載は地震研究者にはよく知られている有名な「事件」です。昭和大橋の落橋も大事件でしたが,「川の水がなくなった」,「川底がわれた」という両証言はとても重要な学術的意味を持っていると思います。
§7 そのとき何が起こったのか
7-1. 大地が波を打つ
江戸後期の1828年三条地震では,小泉其明という新発田藩主お抱えの絵師が描いた「大地波打つの図」が残っています(図5).画者が目撃者から聞いた内容をもとに描いたものです.図の左奥の白地の二つの山形が遠景の山で,//の模様が入っている山形は田んぼが波打っている様子を描いたものです.田んぼが遠景の山並みと同じくらいの振幅と波長で描かれています.絵を載せた懲震毖録(新津古文書研究会,2006)の本文を筆者の意訳による現代表記で示します.
真木新田権八というものは近くの川でこの災難にあった.岸につかまって見ると,田畑が大波の押し行くように揺れて,隣の庄瀬村の方へ過ぎて行った.その間暫くは庄瀬村の家並みが田畑の揺れる波間に,現れたりり隠れたりして見えた.
小高い野原にいて,地震がやってくる様子を見た人によると,大波が西南の方角から砂ぼりを上げながら,真っ黒い煙が吹いてくるようにやって来た.このとき地面は大波が上下するように振るい立ち,波は東の方へ去って行った.
彼方にある山々は暫くの間,地面の波に隠れて出たり潜ったりしていた.
懲震毖録にはこのような大地が波打つという凄まじい様子が他の人の目撃談として繰り返し記述されています.
7-2. 鉄路に残った変動
本題の昭和新潟地震にもどります.新潟日報1964.6.17に掲載された写真を紹介します(図6).ここは新潟から西方に延びるJR(当時国鉄)白新線の白山駅から新潟駅の方に500mほど戻った地点です.信濃川を渡る鉄橋の西詰のすぐ近くで,昭和大橋西詰とは左岸土手沿いに約600mの距離です.写真で見る限り地盤の側方移動は認められません.また土台が流動しただけであれば枕木とレールが宙に浮く形になるはずです.これは図5の三条地震のときのような上下の運動がこの変形をもたらしたと考えるほかありません.一緒に運動したであろう周囲の土地や木造家屋は弾性体の振る舞いをして振動がおさまった後は旧に復しました.対してこの鉄路と砂利で構成された土台は,周囲と一緒に上下の振動を繰り返したのち,最終的には塑性体の振る舞いをし,しっかりとその痕跡を残したわけです.
この鉄路の変形をもたらした震動は,写真の手前から向こう側へ進みました.この震動をもたらした「波源」である信濃川の川底の振動はこれ以上の振幅であったに違いありません.
7-3. カルメ焼きのように
白山高校T君ほか四名の「川岸の震動方向は川と直角の方向であったと思う.川の水はカルメ焼きのように持ち上がった」という証言と4-1節の検討をさらに吟味してみましょう.水面がカルメ焼きのように持ち上がったということは,川底が持ち上がったことによる結果です!.お風呂で底に置いた両手を開いたまま上方へ持ち上げると,湯面がわずかにもりあがります.手を10cm くらい持ち上げたときの湯面の盛り上がりは1cm程度でしょうか.信濃川の昭和大橋中央部付近の水深は約5mです.カルメ焼きの高さを1mとしても,お風呂の比率からすればほとんど川底が水面まで上がってきている勘定です.川底が最大限に上昇したときは両側に引っ張りの力が働きます.目撃者の渡部さんが欄干につかまって真下にみたのは、水面まで上昇してきた川底がぱっくりと開いた地割れ(亀裂)だったのです.先の証言の「川岸の震動方向は川と直角であった」から,川底の振動は左岸の白山駅方向に伝播し,鉄路を変形させる震動をもたらしたのでしょう.
大事件が起こったあとの証拠は,多くは消えてしまいます.一例を挙げると,液状化による噴水の場合も証拠を残しません.主犯である噴き上げた水は流れて残らず,わずかに上がってきた従犯でさえない砂だけが噴出口の回りに火山噴丘のように残って犯人扱いされ,それで誤って噴砂現象と呼ばれます.噴出する水の総量は砂の量とは比べるべくもありません.白新線の鉄路の変形が保存されたのは例外なのです.どんなに凄まじく川底が上下や側方に動いても,揺れがおさまったあと,構造物の多くは元に戻り,割れ目は塞がってしまうのです.二つの橋脚を飲み込んだ信濃川川底の巨大な割れ目も揺れたこと以外は何ごともなかったかのように跡形を残しません.このような場合,決め手は目撃証言だけなのです.
7-4. 地割れの深さは
地震後の橋の修理工事を始める前に,潜水夫(当時の呼称)が消失したP5とP6の橋脚(8×2=16本)を探しましたが一本も発見できませんでした.深い亀裂が生じた状態で震動が加われば,水を含んだ砂よりも重いコンクリートパイルは沈降します.それではその断裂つまり地割れはどれくらいの深さまで考えられるのでしょうか.この問題に対するヒントが1828年三条地震の記録(五十嵐,1959)にあります.これは前述の小泉其明の子の小泉蒼軒が新発田藩記録を写し取ったものです.
横場新田百姓忠次郎居屋敷竹藪より黒砂水吹出五六尺も飛上り忽水面ニ相成其辺家床上り仕候
(中略)吹出候水湯のごとく暖有之候
吹出した水は湯のように暖かかった,とあります.地表近くの地温を15℃,地下増温率を3℃/100m,この「湯」の温度を30℃とすると,500mの地下から水が上がってきたことになります.言い換えるとこの場合は地割れの深さが500mと求められるのです.
7-5. 底が見えていた時間
信濃川の事件は,割れ目を見たのは一人だけですが,川の水が無くなったことについては複数の目撃がありました.そのうち,橋の中央の橋桁EとFの境付近にいて割れ目を見た渡部さんは『それは逃げる直前のホンの一瞬で「オッ,ワー」という感じで1〜2秒の出来事だった』としています.これに対し,右岸の土手(橋の東詰,上流側)にいた高島さんは『信濃川の水がだんだん引いて小川のようになった.むき出しになった川床では魚が跳ねた』と証言していて,明らかに渡部さんより時間が長いのです.ただし,高島さんは津波が来ると思い,すぐにその場を離れたのでどのくらいその状態が続いたのかは分かっていません.これは橋の中央から見下ろしていた渡部さんと岸近くの浅瀬を見ていた高島さんの違いによるものなのでしょう.川岸は橋中央の渡部さんとは300mほど離れた地点なので,川底の上下運動の場所による違いで,このような状態が生じたのかもしれません.
図5 大地が波打つの図(小泉其明,懲震毖録から) 図6 国鉄白山駅東 (新潟日報 1964.6.17から).
§8 教訓は生かされたか
昭和大橋は再建工事で,橋脚の鋼管の数を2倍にして補強されました(図7)。P1とP2の場合,既設の9本がP3やP4と同様に右岸側に少し傾いていましたが,平行に8本の新しい鋼管を打ち込んで補強されました。P3,P4のもとの鋼管は傾きが大きいので破壊・撤去されました。P3〜P6は新たに2列18本だての鋼管が打ち込まれました。P7以下は平行に9本がうちこまれて補強されました。また,2列18本だてになったため桁端が橋脚の台に載る部分を長くとることができました。 滑動を止める装置も取り付けられました.専門外の者からの感想で恐縮ですが,ひとまずは経験をふまえた改善がなされたといえるでしょう。修復にあたられた関係者には橋の利用者の一人として敬意を表します。
将来,紹介したような「川が割れる」ような現象が起きた場合はどうでしょうか。その場合は橋脚そのものが沈下するわけですから,橋脚がなくなっても宙吊りの状態で橋桁が一時的でも「保持」されることが期待されます.図8中の橋桁同士をとめる継ぎ手がその役割をはたすことになるのでしょうか。
思うに,私たちは大きな自然災害を経験するたびに想定外の凄まじい現象を目の当たりにしてきました。これからも今まで見たことも聞いたこともない,もっと凄まじい現象を見ないとは誰にも言えないのです。この場合のようにあらゆる可能性を前提にして防災対策は立てられなければなりません。昭和大橋の落橋はそんなことを教えてくれているのかもしれません。
図7 現在(2011年)の昭和大橋. 左岸上流側から望む.
Figure 7 Showa Ohashi Bridge as of now (2011). View from the upstream side of the left bank.
図8 東詰(右岸)の橋脚.橋脚同士をとめる継ぎ手と滑動止めが設置された.滑動止めにより1964年にC,B,Aの東側が順に落下していったような事態は免れそうだ.継ぎ手の強度があれば,橋脚が沈下しても橋桁が宙吊りの状態で保持されるだろう.
Figure 8 Bridge pier at the east end (right bank). Joints and anti-slip devices were installed to hold the piers together. Due to the anti-skid structure, it seems that a situation like the one that occurred in 1964, when the east sides of C, B, and A fell in sequence, will be avoided. If the joints are strong, the bridge girder will remain suspended even if the piers sink.
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